“悪い母親”になる恐怖と暴かれる人間の本能『イビルアイ』は異形なのに美しい善悪衝突ファミリースリラー

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善と悪の遺伝子的衝突

遺伝子的に人間は、母性や父性から生じる“よりよい親になる”という考えに執着している。多くのホラー映画はこの遺伝的特性を利用し、善とは逆に向かう恐怖を根幹に据えていることが多い。性根そのものが“悪い”親、あるいはダークサイドに落ちかける様を描いて物語を作り出すのだ。

さらに意地の悪いことに、ホラー映画は父性よりも母性に着目することが多い。もちろん『フレイルティー/妄執』(2001年)といった父性を根にした作品もあるが、圧倒的に母性を根にしたものが多い。『ローズマリーの赤ちゃん』(1968年)、『ヘレディタリー/継承』(2018年)等がいい例だ。

いずれにせよ、必死に善良であろうとする人間の姿が描かれている、善と悪の遺伝子的な衝突に執着したアイザック・エスバン監督の『イビルアイ』は、説得力のある作品だ。

願いを叶える代償に“ある報酬”を要求する魔女

本作は、良い人間であるためには、ある種の”悪”が必要であるだけでなく、人間が“悪”を喜ぶ世界も容赦なく見せつけてくる。エスバンという鬼才は“悪い人間”、“悪い父親”、“悪い母親”という図式をかつてない高みへと昇華させ、邪悪であることのみならず、くすみ濁ったモラルにどれほどの楽しみがあるのかを教えてくれる。もはや生々しいを通り越し、瑞々しさすら感じる恐ろしさで楽しませてくれる、それが『イビルアイ』だ。

13歳のナラは妹ルナの病気療養のため、家族とともに母レベッカの実家、ラスアニマス村へと向かう。そこには祖母ホセファがいた。昔気質で躾に厳しそうなホセファとレベッカの間にはただならぬ確執があることを感じとり、不安になるナラ。そんなナラを置き、両親は治療方法をさがして外出してしまう。

日が経つにつれ、ホセファはナラに対して肉体的にも精神的にも虐待に等しい仕打ちを与え、さらにルナの症状は悪化していく。そんな中、唯一の拠り所は家政婦のアビゲイルだった。しかし、ナラは不安になる話を聞かされる。ラスアニマス村には伝説があり、「願いごとの代わりに、命に関わる報酬を要求する魔女が存在する」というのだ。そしてナラは、祖母が“その魔女”ではないかと疑い始める。

虐待に負けず必死にホセファにあらがう強気なナラが正しいのか? それとも、ホセファが単なる意固地な老婆なのか? このやりとりが非常にスリリングだ。

このスリリングさは、ナラとホセファの大胆な演技が交互に繰り広げられることで生み出される。大胆というか、暴走に近いだろう。ミステリアスな雰囲気の中に潜在的な暴力性を秘めた頑固なホセファ、“悪意ある大人の力”に反発するナラ。そんな2人を煽るアビゲイル――この構図が映画を盛り上げていく。ナラとホセファの勝負が、とにかく見所だ。

子供のために時折、母親は悪い人間になる

『パラドクス』(2014年)、『ダークレイン』(2015年)のアイザック・エスバン監督を語る上では、少しセクシャルな話に触れなければならない。彼はいつも「人間の本能的な部分」を明け透けに描くからだ。

最新作『イビルアイ』のスリリングな素晴らしさは、“女は女らしくあるべき”だと、実に厭らしく見せている点だ。この映画は最終的に、悪い母親であることの恐怖に独特のスリルを吹き込んでいる。それは「子供のために時折、母親は悪い人間になる」ということだ。ホセファは典型的な温かく家族を育む祖母ではなく、夫とセックスする娘に飢えたまなざしを投げかけている。レベッカも図々しい態度でホセファに我が子を預け、ナラを絶望させる。

つまり『イビルアイ』は観客を、女性たちが魔術や自己愛やセックスに絶大な喜びを感じる世界に引きずり込み、没入させ、魅了するのだ。

さらに本作では、悪いことをしたり魔術の助けを求めたりすることに罪悪感はない。母性に関して、善も悪も気にしていない。この世に存在すること、我々自身の厄介な自我は、善か悪かというきれいな線のように単純なものではない。だから両者は常に衝突しつづけ、均衡することはなく常にスリリングな状況を生みだしている。そこに女性的なグロテスクさが追加され、非常に異形で美しい作品となっているのだ。

文:氏家譲寿(ナマニク)

『イビルアイ』は2023年7月28日(金)よりヒューマントラストシネマ渋谷ほか全国順次公開

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