一瞬で奪われた日常「防火用の水を飲もうとしそのまま息絶えた人も」思い託された亡き友の被爆体験を後世に 「語り継ぐ―戦争を知らなくても」(3)

 

被爆77年となった2022年8月6日に広島市の平和記念公園で手を合わせる人。左奥は原爆ドーム

 広島、長崎に原爆が投下されてから78年の歳月が経過した。被爆者健康手帳を持つ全国の被爆者は2023年3月末現在で約11万3千人で最少を更新。平均年齢は85歳を超え、高齢化が一層進んでいる。多くの人の命や生活が一瞬で奪われ、生存者も長く後遺症に苦しみ続ける実態を後世にどう伝えるのか。大きな課題に直面する中、戦後生まれの世代が、被爆者たちの体験を語り継ぐ動きも出ている。数年前に亡くなった友人との約束を胸に、千葉県の学校で朗読活動を続ける女性に話を聞いた。(共同通信=黒木和磨)

 ▽「平和の尊さ、子どもたちに」凄惨な歴史を継承しようと小中学校で朗読を続ける元小学校教諭の央康子さん(70)

 広島市への原爆投下で被爆し、2018年10月に亡くなった小野英子さん=当時(79)=の被爆証言を、千葉県習志野市の小中学校などで朗読しています。晩年の小野さんの語り部活動を支えた友人として、生前に「体験を語り継いで」と思いを託されました。 

 小野さんは6歳の時に爆心地から約1・5㌔の自宅で被爆し、旧制広島県立広島第二中学校の教師だった父の山本信雄さん=当時(39)=と、姉の洋子さん=当時(8)=を亡くしています。ご自身も脱毛や高熱などの後遺症に苦しみました。東京でファイナンシャルプランナーの仕事をしていましたが、2008年に長女が住む習志野に移り住み、小中学校などで語り部活動を始めました。
 

千葉県習志野市の小学校で、小野英子さんの被爆証言を児童に朗読する央康子さん=2022年12月

 小学校教諭を辞めて戦争を題材にした朗読活動をしていた私は14年ごろ、知人の紹介で小野さんと知り合い、その被爆体験に心を打たれました。「当時の記憶がフラッシュバックし赤身の肉や刺し身は食べられない」。そう話しており、苦しみを一生背負っているのだと感じさせられました。
 「被爆の脅威を子どもたちに伝えたい」との思いに共感し、小野さんの活動を支える市民団体「習志野の小さな風の会」に参加。原発問題を考える集会や語り部などを通じ親睦を深めました。
 15年に小野さんの肺がんが判明します。死期が迫る中、高齢化によって被爆体験の語り手が減っていることを危惧していた小野さんから「活動を引き継いでほしい」と何度も頼まれました。「当事者ではない自分には思いを伝えられない」と最初は断っていましたが、強い思いに押され「朗読なら」と引き受けました。亡くなる約半年前のことです。
 朗読の練習を重ね、19年から学校を回り始めました。台本は小野さんが書き残したものです。78年前の夏に4人家族の日常を一瞬で奪われた6歳の少女の体験。「お風呂で水遊びをしていたら飛行機の爆音が聞こえてきます」「私は泣きわめきながら母にすがりつきました」「防火用水の水を飲もうとし、そのまま息絶えた人がたくさんいました」。情感を込めた語りで伝えると、子どもたちは静かに耳を傾けてくれるんです。
 写真や地図を示して原爆投下の被害についても伝えますが、話を聴いた子どもたちの感想文からは、小野さんの実体験が何よりも心に響いていると感じています。  

児童に原爆投下について説明する央康子さん(右奥)

 親交のある小野さんの長女(52)は「今は仕事があり難しいが、私がいつか活動を引き継げる日まで、母のバトンをつないでくださっている」と感謝してくれています。小野さんは未来ある子どもたちのために活動していました。平和な日常がいかに尊いか。私も子どもたちに伝えたいです。

 広島への原爆投下 1945年8月6日午前8時15分、米軍のB29爆撃機「エノラ・ゲイ」がウラン型原子爆弾を広島市に投下した。約14万人が45年末までに死亡したとされ、生き残った人も原爆による後遺症ややけどなどに苦しんだ。

© 一般社団法人共同通信社