尾崎豊ってどんな人だった? 弁護士会会長になった兄に20代記者が聞いた「ユタカの生涯」 「弟らしさが最も現れている曲」とは?

尾崎康さん(右)の結婚式に参列した、弟豊さん(左)=1986年2月15日(康さん提供)

 さいたま市の埼玉弁護士会館で4月、新会長の就任記者会見が開かれた。柔和な表情で現れた新会長、尾崎康さん(62)は報道陣にこうあいさつした。
 「私の弟は尾崎豊というシンガー・ソングライターでした」
 その名前は、20代の私にも聞き覚えがある。手元のスマホで検索すると「I LOVE YOU」「卒業」・・・と聞いた事のある曲がずらっと並んだ。
 1980~90年代のカリスマシンガーということは知っていたが、その兄が弁護士会会長になったというニュースに対する反響は、予想を超えていた。
 その日の夜、母から着信。そのひとこと目は「尾崎豊のお兄さんが埼玉弁護士会長になったね!」。しかも少し興奮気味だ。その後も、取材先のあちこちで同じような声を耳にした。
 あまりの反響の大きさに「どうやら彼が残した社会的影響は、私の想像のはるか上をいっているらしい」と考えるようになった。

インタビューに応じる埼玉弁護士会会長の尾崎康さん

 尾崎豊が亡くなったのは1992年。私はまだ生まれていない。それでも、歌には聞き覚えがある。実際、カラオケで曲を歌ったり、「OH MY LITTLE GIRL」を流しながらドライブしたりした経験もある。ただ、その姿はカラオケ映像で見たことがあるだけで、どこか遠くにも感じる。
 亡くなって31年がたった今も、なぜこんなに話題になるのか、尾崎豊ってどんな人だったのか。お兄さんが会見で明かした「弟の死をきっかけに司法勉強に力を入れた」という言葉の意味は―。
 兄弟はどんな人生を歩み、何を感じていたのか、改めて「ユタカ」を最も知る兄の康さんに話を聞かせてもらった。(共同通信=櫛部紗永)

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 ▽不登校だった弟は、放置していた兄のギターを手にした
 まず、康さんに会う前に一通り調べてみた。尾崎豊は生前、10代の少年少女から絶大な支持を集め「教祖」「救世主」などと呼ばれていたようだ。あるライブ映像には、ギターを片手に苦悶するように歌う、大人びた青年の姿がある。自身の葛藤を口にする場面では意志の強さが感じられた。落ち着いた様子で会見の質問をさばいていた兄の康さんとは、全く別の印象だ。
 5月末、取材に応じてくれた康さんは、10代のカリスマと呼ばれた弟と歩んだ半生がどんなものだったのか、優しい口調で語ってくれた。

 1960年、東京都町田市に生まれた康さんは、幼少期を練馬区で過ごした。飛騨高山出身の両親は、父親が自衛隊事務官、母親がパートタイマーの共働き。身近に親戚はおらず、典型的な核家族だった。
 1965年に五つ下の弟、豊さんが誕生。幼い頃から仲が良く、原っぱに連れ出しては、近所の子どもたちと鬼ごっこや缶蹴りをして遊ぶのが日課だった。
 埼玉県朝霞市の新居へ引っ越すと、豊さんは転校先の小学校になじめず、不登校に。そんな時、康さんが使わず放っていたギターを手に取り、自宅で弾き語りをするようになった。独学にもかかわらず、めきめきと上達。堂々と伸びのある声を響かせ、母の誕生日にはリクエストに応えて歌を披露した。

埼玉県朝霞市の自宅前で。尾崎豊さん(左)と康さん(右)。撮影日不明(康さん提供)

 ▽名曲「15の夜」は実体験から生まれた
 不登校が続くことを懸念した両親は、豊さんを生まれ育った練馬区の中学に入学させた。同級生らとバンドを組み、文化祭のステージにも出演。高い歌唱力と端正な顔立ちで、あっという間にファンがついた。バレンタインデーには山ほどチョコレートを持ち帰った。表情は自信に満ち、学生生活を楽しんでいる様子だった。
 だが次第に、社会へのいら立ちをうかがわせるようにもなった。後のデビュー曲「15の夜」の歌詞に登場する家出騒ぎは、中学後半ごろのこと。夜になっても帰ってこず、母は同級生宅に片っ端から電話をかけて探した。

家族旅行で訪れた伊豆で。尾崎豊さん(左)と康さん(右)。撮影日不明(康さん提供)

 高校で三度の停学処分を受け、無期停学に。両親は復学させてほしいと教師に何度も頭を下げたが、学校側は聞き入れなかった。
 この停学処分が、豊さんが自身を内省する貴重な機会になった。自宅で朝から晩までギターを弾き、作曲に没頭。「自分という存在が何なのか」「何のために生きているのか」―。歌いながら自問自答しているようだった。
 レコード会社のオーディションに高2で合格。応募のデモテープは、豊さんの歌声にほれ込んだスタジオが機材を無料で貸し出して収録したものだった。1983年、高3の冬にデビュー。熱狂的な支持を得て瞬く間に時の人となり「10代のカリスマ」と呼ばれた。
 このころ、康さんは早大法学部に進学。高校時代の仲間とスポーツサークルを立ち上げた。公園で花見をした際には、豊さんのギターに合わせてツイストして踊った。公務員を目指して就職活動し、大学卒業後は裁判所書記官として東京地裁などに勤務。25歳で結婚した。

母の隣でポーズを決める尾崎康さん(中央)と弟豊さん(康さん提供)

 ▽渡米後の薬物使用、殴り合いの兄弟げんか
 順風満帆に思われた兄弟の生活は、豊さんの薬物使用で一変する。音楽を学ぶために渡米したが、帰国後に幻覚症状に襲われ、ろれつが回らないことも。康さんは弟を監視するため頻繁に実家に帰り、殴り合いの兄弟げんかをして諭した。最後は薬物を見つけた父が警察に通報。覚醒剤取締法違反容疑で逮捕され、有罪判決が下った。
 母は事件が知られないよう警察に泣いて頼んだ。だが、すぐさまマスコミは実家に押し寄せ、夜中に実家から自身の自宅へ両親を連れ出した。弟を酷評する報道も多かった。胸が締め付けられたが、家族で話し合い、保釈は求めなかった。更生を願ってのことだった。

埼玉県川越市の霊園で。左から母、豊さん、康さん、父。撮影日不明。母はこの霊園に眠る(康さん提供)

 世間からは厳しい視線を浴びたが、ファンは離れなかった。釈放後はテレビに初出演し、復活コンサートは5万人以上を動員。普段はおとなしい性格の豊さんだが、ステージ上では神がかったパフォーマンスを見せ、輝きを取り戻した。その後もヒット曲を連発。アルバムを記念した全国ツアーも決定した。
 だが人気絶頂の中、豊さんは1992年に26歳の若さで突然この世を去る。
 康さんは仕事を辞め、弟の事務所で対応に追われた。悲しみに暮れる余裕はなかった。追悼式には約4万人が殺到。ファンの多くは中止となったツアーの払い戻しを求めず、チケットを記念として手元に残した。衰えない人気の証左だった。
 生活が落ち着き、康さんは自身の人生を見つめ直すようになった。何度も失敗して諦めかけた司法試験に再挑戦しようと決め、かつて弟と過ごした実家の勉強部屋に通った。33歳で合格し、埼玉弁護士会に登録。若者の不安や苦しみを歌った豊さんの影響もあり、少年事件や児童虐待問題に力を入れて取り組んできた。

インタビューに応じる埼玉弁護士会会長の尾崎康さん

 ▽「ユタカらしさ」が最も現れている曲とは
 急逝から31年。今も豊さんの存在の大きさを感じる。ファンから涙ながらに声をかけられたり、街中で楽曲を耳にしたりすることはしょっちゅうだ。「弟は社会に反抗する心情を歌っていたが、決して暴力的ではなかった。繊細な子にこそ響く曲だった。『自殺を思いとどまりました』と書かれたファンレターが自宅に届いたこともあった。人の心を動かす力を持っていた」
 康さんに、豊さんらしさが最も表れている楽曲を聞くと「シェリー」を挙げてくれた。
 「シェリー いつになれば 俺ははい上がれるだろう」―。
 康さんに理由を聞くと、こう答えた。「華やかなデビューとは裏腹に、学生時代は最低最悪な状況だった。オーディションに合格しても、歌手の道に半信半疑だった両親は、高校に復学して進学するよう言い続けた。『俺はまだまだ恨まれているか』と泣くように歌う姿に共感する人は多かったはず」

 

父が詠んだ短歌。右の短歌は、康さんと豊さんが学校をさぼりがちだった学生時代に詠まれた(康さん提供)

 ▽社会に問いを投げた弟、遺志を継ぐ兄
 今も康さんの記憶に強く残るのは、2人で飲んだ時に豊さんが得意げに口にした漢詩の一節だという。
 「不如生前、一杯ノ酒(しかじせいぜん、いっぱいのさけ)」
 死後に莫大な財産を残すより、生きているうちの一杯の酒の方が価値があるという意味。短歌を趣味とした父が豊さんに教えたものだった。「自分にとって豊は、誇らしい弟でもあり、アニキと慕うかわいい弟でもあった。もっと長生きしてほしかった」。そう語る康さんの目には涙が浮かんでいた。
 「豊は歌うことで社会に問いを投げかけた。自分も恐れずに言うべきことを言う姿勢を大事にしたい」。康さんは、豊さんが夢見た景色に思いを巡らせ、歩みを進める。
 最後に弁護士としての矜持を聞いた。「弟は押さえ付けてくる大人たちのやり方に反発し、自由に生きたいと感じていた。弁護士も自由を制限するものには反対し、憲法に忠実であるべきだ。使命である人権擁護や社会正義の実現に、力を入れたい」

 【インタビューの動画はこちら】
https://www.youtube.com/watch?v=NFUS9Vla7XA&t=64s

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