「軍隊は市民を守ってくれない」11歳の少年は〝地獄巡り〟を味わった 70年以上語らなかった沖縄戦、地上戦闘の凄惨 

沖縄戦の記憶を語る大城勇一さん=6月9日、沖縄県宜野湾市

 1945年4月1日、沖縄に米軍が上陸した。太平洋戦争中、日本で住民を巻き込んだ苛烈な地上戦となった沖縄戦の始まりだ。戦況の悪化に伴い、日本軍は住民に避難命令を出した。沖縄県宜野湾市の大城勇一さん(89)は当時、11歳の少年。両親ら家族は少しでも安全な場所を探し求めて南へ、南へと避難。しかし、行く先々で待っていたのは米軍の激しい攻撃と、住民や兵隊の多くの遺体。さらに、味方だと思っていた日本兵の「本当」の姿だった。逃げる途中では姉も亡くなった。大城さんは当時を振り返って「地獄巡りだった」と語った。(共同通信=榎本ライ)

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沖縄本島に上陸した米軍=1945年4月(米沿岸警備隊撮影)

 ▽米軍が迫り、機関銃の弾が…。生きるため家族は徒歩で避難を続けた
 大城さん一家が当時住んでいた南風原村(現南風原町)照屋の近くは、日本軍の陣地が多かった。このため米軍の攻撃目標とされ、空襲で大半の部落が焼き払われた。
 4月下旬、大城さんと両親、姉、祖母、いとこら9人は、父の友人がいる約6・5㌔南東の親慶原(現南城市玉城親慶原)に向かった。昼間はアメリカ軍の飛行機に発見される恐れがあるため、歩くのはもっぱら日が暮れた後。親慶原では自然洞窟に入れてもらい、約2週間を過ごした。

沖縄本島南部で日本軍を攻撃する米軍=1945年6月、米陸軍通信隊撮影(ACME)

 さらに、約1・5㌔南西にある旧玉城村富里(現南城市玉城富里)の岩穴へと避難。ところが、ある朝起きると、周囲の人たちの様子がおかしい。話を聞くと、「敵がすぐそこまで迫っている。ここは危ない」。
 家族は大急ぎで荷物を集めた。ここでいとこや祖母らといったん別れ、約2㌔南東の「百名」で落ち合うことにし、出発。ところが、途中の「屋嘉部」にある高台にさしかかったところ、機関銃や小銃の弾が「ヒュー」と口笛のような音を立てて何発も飛んできた。危なくて前に進むことができない。仕方なく富里に戻った。後になって、別行動を取った祖母やいとこらが全滅したと知った。
 富里の岩穴に戻った家族は、逃げる方向を西に変えた。畑のあぜ道を通り、父の友人がいるという「新城」にたどり着く。しかし、訪ねていったその家はもぬけの殻。既に避難した後だった。その家でしばらく休んでいると、凄まじい音がし、迫撃砲弾が近くに落ちた。この場所も危険だと思い、一家は再び出発。南西の方向に向かって歩いた。

大城勇一さんが記した沖縄戦の手記=6月9日、沖縄県宜野湾市

 ▽爆撃の中、「日本兵」に壕を追い出され
 避難を続ける途中では、道路の至るところで日本兵や住民の無残な遺体が野ざらしになっていた。悪臭が鼻を突く。遺体から目を離すことができずに見つめていると、母に「置き去りにされたいか」としかられたという。
 そのころから、いわゆる日本軍の敗残兵の姿が目立つようになった。所属部隊を離れ、1人でうろついているからすぐに分かる。ある時、一家が壕に隠れていると、1人の日本兵が現れて告げた。「この壕は日本軍が使うから、すぐ出て行くように」
 軍が使うのではなく、ただ自分が入りたいだけということは、子どもだった大城さんにも分かった。爆撃が迫り、このままここにいても危ないかもしれない。家族は仕方なく壕を離れた。
 その後も避難は困難を極めた。米軍に狙われるのを避けるため、家族はできるだけ人が少ない場所で、少人数での行動を心がけたという。人間がたくさんいると、見つけた米軍機が砲弾を落としてくるからだ。あまりのつらさや恐怖に、大城さんはこう思っていた。
 「死んでもいいという気持ちだった。どうせ死ぬならば苦しむより、吹き飛ばされて死ぬほうがましだとさえ思った」

ガマ(壕)の中から仰ぎ見る空=6月9日、沖縄県糸満市

 ▽姉は「キビが食べたい」と言って…
 食糧も少なくなってきたころ、摩文仁近くの大通りでサトウキビ畑のそばを通った。すると、姉の菊さん=当時(18)=が思わずつぶやいた。「キビが、食べたい…」。それを聞いた母は怒った。「おまえはここをどこだと思っているんだ」
 ただ、しばらくすると菊さんはよろけだし、座り込むように倒れた。両親が駆け寄って介抱していると、突然、「ダダダダ」と機関銃の音。弾が足元の地面に突き刺さった。家族は菊さんにかまう余裕もなくなり、クモの子を散らすように南国植物のアダンの茂みに逃げ込んだ。しばらくして銃撃がやみ、両親が様子を見に行くと菊さんは既に息絶えていた。
 母は遺体に向かって手を合わせ、こう言った。「戦争の世の中だから、かえってあなたは幸せ者かもしれない。どうか見守ってくれ」

沖縄県八重瀬町のサトウキビ畑=6月9日

 ▽夫婦は父に「私たちを殺してほしい」と懇願した
 逃げても逃げても、米軍は目前に迫ってくる。摩文仁ではその後も猛烈な迫撃砲に襲われたが、どうにか生き延びた。
 母は乾パンを取り出して家族に全員に配り、静かに告げた。
 「こんな戦世(いくさゆ)だから、弾に当たってけがをして、重荷になった場合、見捨てられることがあるかもしれない。そのときには誰も…誰も恨まないようにしよう」
 娘を亡くし、いつ自分たちも死ぬかもしれないという極限状態。大城さんには、この時の母の気持ちがよく分かったという。「こう考えるのは当然のことだった。この地獄の中を誰かが生き残れるように」

 家族が最後にたどり着いたのは、摩文仁近くの絶壁「ギーザバンタ」の海岸だった。

沖縄県八重瀬町の「ギーザバンタ」=6月8日

 はだしのまま、ギザギザとした岩肌を歩き続けるのは大変な苦痛だった。海辺にはいくつも岩穴があり、中をのぞくと同じような避難民がたくさんいた。住民に紛れた日本兵の姿も少なくなかった。軍服を捨て、沖縄の住民のような着物姿になっている。
 人影が少ない場所を探し、一家が身を寄せ合うように入ったのは、自然壕というより鍾乳洞だった。持ってきた食糧も既に食べ尽くし、みそをなめて飢えをしのいだ。大城さんは避難の間、家族で何かを話した記憶がないという。会話をする余裕もなく、逃げるだけで精いっぱいだった。
 あるとき、家族がいる鍾乳洞の近くに妊娠した女性がやってきた。女性によると、夫は食糧を探しに出たという。ただ、周囲に隠れている人々もみんな飢え、食糧になりそうなものは探し尽くされている。食べられるものがあるはずがない。
 しばらくしてやってきた夫は、大城さんの父に小銃を渡して頼んだ。
「僕たち2人を銃で殺してください」
 父は「命を大事にしなさい」と諭したが、どうしても聞かない。家族はその場を離れ、しばらくして戻ってくると、夫婦はいなくなっていたという。

沖縄戦で日本軍の洞穴を爆破し、生き残った日本兵が出てくるのをライフルを構えて待つ米海兵隊員=1945年5月、米海兵隊撮影(ACME)

 ▽「おまえら沖縄人は全員スパイ」。米兵より恐ろしかった敗残兵
 大城さんは日本という国に激しく幻滅していた。本土から来た日本兵は、沖縄の住民を守ろうとしない。沖縄とその住民たちは、本土決戦の時間稼ぎのための捨て石でしかなかった。
 食糧が底をつき、飢えに苦しむ大城さん家族は、ついに「飢え死にするよりは捕虜になろう」と相談し合った。

「沖縄人は皆スパイ」と言われたことを書き留めた大城勇一さんの手記=6月9日、沖縄県宜野湾市

 ところが、ちょうどそこへ敗残兵がやってきた。階級章から、上等兵とみられるその男の目は血走っている。家族の方に目を据えたまま、こう言い放った。
 「おまえら沖縄人は皆スパイだ。捕虜に出て行くときは、後ろから手りゅう弾を投げて、撃ち殺してやるから覚えておれ」

 脅しを受けても、家族の意志は変わらない。「こんな敗残兵に殺されてたまるか」。男の姿が見えなくなるのを確かめてから、全員で米軍陣地に向かい、捕虜になった。
 大城さんは当時を思い出すたびに怒りを覚えるという。「何が『皆スパイ』か。皆ですよ。沖縄人が何をスパイしたか」

沖縄本島に上陸した米軍に拘束され、道路脇に座り込む住民=1945年4月(ACME)

 ▽「軍隊は住民を守らなかった」
 やっと生き延びることができたと安心したのもつかの間、母が栄養失調とマラリアで亡くなった。「こんな地獄の激戦を生き延びたのに」と、悔しくてたまらなかった。
 大城さんは戦後、教員となったが、最近まで自分の経験を話すことはなかった。理由は「あの体験を思い出すのはつらい。それに短い時間では語れないから」。
 ただ、後世に伝えることは必要だと思っていた。子どもや孫たちに手記を印刷して渡し、話もしたのは数年前のことだ。

 沖縄戦では、県民の4人に1人が亡くなった。本土決戦の準備に時間を稼ぐための捨て石とされ、「鉄の暴風」と呼ばれた米軍のすさまじい砲撃の中で、住民は行く当てもないまま逃げ惑うしかなかった。

母(左)と姉菊さんの写真を手にする大城勇一さん=6月9日、沖縄県宜野湾市

 終戦から78年を迎え、沖縄など南西諸島では、台湾有事などを念頭に防衛力強化が進む。大城さんは「戦争につながるあらゆるものをつくってはいけない」と考えている。壮絶な経験を語ってくれた後で、言葉を詰まらせ、こう語った。
 「軍隊は国を守るどころか、沖縄すら守れなかった。住民をスパイ扱いし、邪魔者として扱った。戦争の準備はしてはいけない。軍隊は住民を守るためではなく、戦うためにあるのだから」

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