平良啓子さん死去 88歳 対馬丸生還、語り部

 太平洋戦争中の1944年に米潜水艦に撃沈された対馬丸事件の生存者で、体験の語り部として平和教育に取り組んでいた平良啓子さんが29日午前10時23分、大動脈解離のため名護市の病院で死去した。88歳。国頭村安波出身。自宅は大宜味村喜如嘉。

 安波国民学校4年生、9歳だった44年8月21日に、家族といとこの6人で本土へ疎開するために那覇港で対馬丸に乗船。翌22日の午後10時12分ごろ、対馬丸は鹿児島県悪石島付近を航行中に米潜水艦ボーフィン号の魚雷攻撃を受け沈没した。

 沈没で海に投げ出されたものの、漂流するいかだに乗ることができ、6日後に無人島に漂着し救助された。祖母や兄、いとこを含め乗船した1484人(氏名判明分)が犠牲となった。奄美大島で半年を過ごし、45年2月に国頭へ戻るものの、4月には米軍が本島に上陸したため避難生活を送った。

 53年の辺土名高校卒業後、事務職員を経て教員に。給食時間に児童に体験を語ったことをきっかけに語り部の活動を始め、平和教育の先駆けとなった。事件40年の84年には手記をまとめた「海鳴りのレクイエム」を著し、大きな反響を呼んだ。

 教員退職後も対馬丸記念館を通じて、積極的に平和の尊さを訴え続けた。大宜味村憲法九条を守る会の世話人代表を務めた。2014年には平和・人権推進部門で県功労者に選ばれた。

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