犠牲者たちと歩んだ人生 平良啓子さんを悼む 髙良政勝(対馬丸記念会代表理事)

 対馬丸事件の遺族や体験者といっても、それぞれの信条があり、いろんな考え方があった。1944年の対馬丸事件が起きた直後には、事件を口外するなというかん口令がしかれ、軍部などから口止めされたことを負い目に感じ、戦後になっても事件を語れない体験者がいた。

 そのような中、体験者である平良啓子先生は戦後の早い時期から事件を表立って語っていた。小学校の教員であり、子どもたちに教育現場で接し、自らの体験を伝えた。「平和教育」という言葉が戦後生まれたが、それをいち早く実践していたといえるのではないか。

 漂着した奄美大島の人々に助けられた。1986年、95年、2006年、15年、17年と奄美に行き、救助した関係者を訪ねたり、講演をしたりするなど交流を重ねていた。「奄美で救われた命。何度行っても足りない」。そんな思いもあっただろう。

 対馬丸事件の犠牲となった子どもたちと歩んだ人生だったともいえる。学校の先生であったからか、物事をはっきりと言う人であった。相談をすることもあり、対馬丸事件を継承する上で道しるべ的な存在だった。

 事件当時は9歳で、記憶はしっかりと残っていたのだろう。沈みゆく対馬丸をしっかりと見届け、証言できる数少ない体験者の1人だった。

 訃報を聞き、ぼうぜん自失となった。対馬丸事件の慰霊祭は、犠牲者を弔う小桜の塔がある那覇市若狭で毎年執り行う。平良さんは自宅のある大宜味村喜如嘉から慰霊祭に参加していた。近年はコロナ禍の影響で、顔を合わせる機会が減っていた。ことしは直接会えると思っていただけに非常に残念だ。

(談)

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