9歳で対馬丸に乗り兄や友失う 戦後教員1年目から始めたこと 平良啓子さん死去

 平良啓子さんは安波国民学校の4年生だった9歳の時に対馬丸に乗船、奇跡的に生還した。家族・いとこの6人で乗船し、兄や祖母、仲の良かったいとこや友を失った。戦後、小学校の教員として教壇に立ち、「生き残った者の使命」として対馬丸の悲劇と命の尊さを訴え続けた。語り部以外にも自宅がある大宜味村では「憲法九条を守る会」の代表世話人を務め、反戦平和への強い思いが活動の原動力だった。

 「後に続く世代に戦争の悲惨さを訴えるために教員となった」と語った平良さんは、1954年に教員1年目から新聞や雑誌に自身の体験手記をたびたび投稿していた。奥間小に赴任した84年には自身の体験と反戦への思いをつづった「海鳴りのレクイエム」を発刊した。

 本は反響を呼び、全国に広がった。平良さんの元には各地からの講演会依頼が相次いだ。全国を飛び回り、体験を語り続けた。平良さんは当時、語り部の活動について本紙取材に「おとなしくしているのが楽かもしれないが、体験者が口をつぐんではいけない、惨禍を語り継ぐことこそ死んでいった友への供養だ」と語っていた。

 使命感と亡くなった友や家族のために活動を続けてきた平良さんの信念はどんな時も揺らがなかった。2014年6月、天皇皇后両陛下(現上皇ご夫妻)が対馬丸記念館を訪れた。事前に関係者から来訪を聞いていたが、平良さんは欠席した。その理由について「海で亡くなった子どもたちの顔が今でも目に浮かぶ。皇民化教育で洗脳され、国のために死んでいった。疎開も子どものためと言いながら、本当は口減らしだった。危険な海に行かされた子どもたちは沈められた」と語っていた。

(吉田健一)

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