ナチス・ドイツが略奪したポーランドの聖母子画を巡るミステリー 80年後に東京で見つかった絵には「違う部分」、科学調査が謎を解いた

発見された絵画「聖母子」=ポーランド広報文化センター提供

 2021年秋、東京都江東区の「毎日オークション」に、女性が幼子を抱きかかえる「聖母子」の絵画が運び込まれた。所有者から競りにかけてほしいとの依頼を受けたためだ。サイズは106・7センチ×89・8センチ、保存状態は良好。翌年1月下旬のオークションにかけられることが決まり、事前周知のためホームページに写真が掲載された。
 すると、ポーランドの文化・国家遺産省からこんなメールが届いた。
 「その絵は第2次世界大戦中、ポーランドがナチス・ドイツに奪われた『略奪美術品』の疑いがある」
 毎日オークションの小野山良明副部長は驚いた。「こんなことが起こるとは思いもせず、本当にそんな部署があるのか大使館に問い合わせました」

「聖母子」の足取りを説明する毎日オークションの小野山良明副部長=6月13日、東京都江東区

 ポーランド側は、イタリア人画家アレッサンドロ・トゥルキが描いた「聖母子」と指摘。オークションへの出品が見送られることになった。ただ、関係者が当時の写真と見比べたところ、一部に明確な違いが見つかった…。
 戦時中にナチスに奪われた美術品が、日本国内で見つかるのは極めてまれだ。この聖母子も最終的に「略奪美術品」と認定され、ポーランドへの返還につながる。実物と写真との違いの「謎」を解き明かしたのは、ポーランドの調査チームだった。歴史に翻弄され、80年をかけて世界を一周した絵画の足取りを追った。(共同通信=三吉聖悟)

1939年9月にドイツはポーランド侵攻を開始。ポーランドの領土に入るドイツ軍の部隊

 ▽ポーランドからニューヨークへ
 トゥルキ(1578~1649年)が描いた「聖母子」は、記録によるとポーランドでは最初に美術品収集家でもある政治家が所有し、その後は南東部プシェボルスクの貴族のコレクションに加えられた。
 第2次大戦が勃発すると、プシェボルスクはナチス・ドイツの占領下に。聖母子はドイツ軍の手により、1940年ごろ、所有者の貴族宅から運び出された。
 

ナチス・ドイツの独裁者ヒトラー(AP=共同)

 ナチス・ドイツは大戦中、各地で美術品の略奪を繰り広げた。その狙いは、ユダヤ文化を消滅させようとするホロコースト(大量虐殺)の一環だったとも言われている。また、金銭的な目的や、ヒトラーら幹部が個人的に美術品を求めた側面もあったとされる。ナチス・ドイツだけでなく、旧ソ連軍も戦利品として美術品を持ち帰り、売買などを通じて世界中に拡散した。ポーランドでは、略奪や破壊の被害に遭った美術品や書籍などが50万点以上と推定される。
 ナチス・ドイツはポーランドから奪い去った収集品を3段階にクラス分けし、カタログを作製している。最も貴重な「第1選抜」の521作品のうち、聖母子には「145」という番号が割り振られた。写真はこの時に撮影された。
 聖母子はその後、1990年代に米ニューヨークでオークションに出されたのを最後に行方が分からなくなった。今回、日本で見つかるまでの詳しい経緯は分かっていない。

 ▽オークション直前、再び出品見送り
 毎日オークションに持ち込まれた「聖母子」と、ナチスに略奪された当時の写真との違いは、幼子が身にまとう産着の描かれ方にあった。写真の幼子はほぼ裸だったが、見つかった絵画では下半身が隠れるように産着が描かれている。
 明確な違いがあったことで、ポーランド側からは「調査対象外」と連絡があり、聖母子は改めて競りにかけられることになった。オークション参加者らが事前に実物を品定めする下見も行われ、いよいよ競りが行われる直前、文化・国家遺産省から再度連絡が入った。「略奪された絵画の可能性が捨てきれない」。再び出品は見送られた。

世界中の美術品が集まる毎日オークション。「聖母子」も競りにかけられる予定だった=6月13日、東京都江東区

 ポーランド側は調査チームを日本に派遣。確認作業が始まった。文化・国家遺産省の担当者が分析のポイントを明かした。
 「絵画の同一性分析においては、絵画の構図だけでなく構造も考慮に入れました。1939~1940年ごろにドイツ軍が撮影した写真で確認できる細部を、2022年の検証時に撮影した絵画の写真と比較しました」
 まず、写真で特徴的だったキャンバスの横糸と縦糸に印がつけられた。東京で見つかった絵画のキャンバスの横糸・縦糸と、写真のそれを比較すると、撮影条件が異なっているにも関わらず、複数の箇所で重なった。さらに、強い力で引っ張られてできたとみられるキャンバス左端のゆがみも一致。文化・国家遺産省の担当者は「私たちは常に、作品に特徴的な唯一無二の細部、いわゆる作品の『指紋』を探しています」と説明した。
 最大の謎だった「産着」については、絵画に紫外線を照射した結果、答えが浮かび上がってきた。産着は、何者かによって描き足されたものだった。

「聖母子」の引き渡し式に出席した毎日オークションの小野山良明副部長(右)=5月31日、東京都目黒区のポーランド大使館(ポーランド広報文化センター提供)

 ▽「仕事は果たしたと思う」
 こうして東京で見つかった聖母子は、ナチス・ドイツが略奪したものと断定された。その価値は約2万ユーロ(日本円で約300万円)と推定されるが、小野山氏からの働きかけもあり、所有者が無償返還に合意。今年5月31日、東京のポーランド大使館で引き渡された。今後、ポーランド国内の博物館で展示される予定だ。
 国境を越えた返還劇に、ポーランド側は「今回の交渉はハッピーエンドにつながった」「最上級の評価に値する」と歓迎した。
 小野山氏は、少しほっとした様子でこう語った。「聖母子を最も高く評価したポーランド国民が所有者になった。金銭は介在しなかったけれど、仕事は果たしたと思う」
 最後に残った謎は、どういう経緯で日本に渡ってきたのかだ。
 この点、毎日オークションは秘密厳守として所有者の情報を明かさなかった。
 ただ、取材を続ける私の元に、聖母子らしき絵画が「東北の美術館に展示されていた」との情報が寄せられた。それを手掛かりに、かつての所有者とみられる、ある法人に取材を申し込んだが、応じてはくれなかった。

略奪美術品に詳しい成蹊大学の佐藤義明教授=6月26日、東京都武蔵野市の成蹊大学

 ▽略奪美術品、実は返還義務がない?
 ところで、略奪美術品は、必ず元々の所有者に返さなければならないのだろうか。略奪美術品に詳しい成蹊大法学部の佐藤義明教授はこう説明する。
 「ナチス・ドイツが略奪した美術品の返還を義務付ける国際法は確立されていません。ただ、1998年の『ワシントン原則』で、倫理に基づいて解決策を追求する考えが関係国の間で合意されました」
 つまり、国際法上は返還義務は生じないことになる。その上で現所有者が取り得る選択肢について、佐藤教授は「美術品を展示する際、来歴に関する説明を付けることを条件に返還請求権を放棄することがあります。他にも、補償金を支払ったり、無償貸与して現在の場所での展示を認めたりするケースがあります。請求者個人ではなく国の美術館への寄贈にすることもあります」と話した。
 略奪美術品は今後も、所有者の世代交代が進むことで表に出てきやすくなる可能性があるという。「遺産相続した人がオークションに出したりして発覚する可能性はあります。返還請求を受けた時にどう対応すべきか、相談できる公的な窓口があると良いと思います」

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