「70年前、ジャニー喜多川氏から性被害を100回以上受けた」 作曲家・服部良一氏の次男らが打ち明けた加害の実態「事務所設立の目的も〝それ〟では」

ジャニー喜多川氏による性加害で取材に応じる俳優の服部吉次さん。左は友人の松崎基泰さん=7月15日、東京都内

 ジャニー喜多川氏の性加害はジャニーズ事務所を創業する前からあった―。戦後歌謡界を代表する作曲家、服部良一の次男で俳優の吉次さん(78)が約70年を経て、幼少の頃のつらい体験を語り始めた。重い口を開かせたのは、若い世代の勇気ある告発だった。(共同通信=加藤駿)

 【動画(26秒)はこちら】https://youtu.be/i7-TOPyLnZg

 【※この問題は、記者が音声でも解説しています。共同通信Podcast「きくリポ」を各種ポッドキャストアプリで検索いただくか、以下のリンクからお聞きください。「ジャニーズ性加害問題、メディアはどう報じてきたか」】
https://omny.fm/shows/news-2/33

2019年7月、ジャニー喜多川氏の死去を伝える街頭テレビ=東京・有楽町

 ▽マッサージは肩から全身、パンツの中…
 喜多川氏は本名の拡(ひろむ)をもじって「ヒー坊」と呼ばれていた。自分から料理や掃除までこなし、家の女性たちから「日本の男とは違う」と評判だった。当時7、8歳だった吉次さんはそう記憶している。
 毎週のように、土日になると彼は服部家にやって来た。「家族と一緒に食事をしたり、マージャンやトランプなどいろいろなゲーム遊びをしたりしたんですよ」。米軍基地内で日用品を扱う売店「PX」から仕入れたとおぼしき、チョコレートやアイスクリーム…。当時まだ珍しかったお菓子などを、お土産として欠かさず持って来たという。
 「今日は泊まろうかな」。ある日、喜多川氏がふと口にした。母親も「よっちゃんの部屋が良い」と言い、自分と並んで寝ることになった。すると彼は、「肩をもんであげるよ」とマッサージを始めた。はじめは肩、次第に全身へともんでいく手は、いつの間にかパンツの中に入ってきた…。
 翌朝、喜多川氏が帰った後で、吉次さんは姉に前夜の出来事を打ち明けた。だが「気持ち悪い、そんな話しないでよ」と言われ、他のきょうだいや両親に話すことはできなかった。
 その後も、喜多川氏が家に来るたび、同じ目に遭うことが続いた。
 「2年半くらいで、全部で100回くらいはあったと思う」
 特に覚えているのが、長野・軽井沢での出来事だ。同級生の松崎くんら友人6人ほどでスケートに行き、別荘に泊まった。引率者だった彼は夜、みんなが寝静まると、いつものようにあの行為を始めたのだ。そしてその手は松崎くんにまで…。

児童虐待防止法改正を求める署名を与野党に提出後、取材に応じた元ジャニーズJr.のカウアン・オカモトさん(右から3人目)ら=6月5日、国会

 ▽寝ていると、体の上に重たいものが…
 その時、自分に向けられた行為は未遂に終わったと、松崎基泰さん(79)は振り返る。寝ていると、体の上に重たいものが乗っかってきた。喜多川氏だった。あまりの恐怖に泣き出すと、隣接する小屋に泊まっていた年長の女性が来て、彼を注意してくれたのだという。
 松崎さんによると、喜多川氏が行為に及ぼうとしたのは、この時だけではなかった。それ以前に服部家へ遊びに行った日、食事を取り、シャープ兄弟と力道山のプロレスをテレビで見ていると、服部家の家族ではない男の人の視線を感じた。それが喜多川氏との最初の出会いだった。
 程なくして、演劇や映画に誘われ、一緒に行くようになったという。ところが暗い劇場内で喜多川氏は、松崎さんのセーターの中に手を入れ、体を触ってきた。「恐怖で母親のみならず身内の誰にも言えず、されるがままで震えを覚えた」
 服部家から松崎さんの家まで、喜多川氏が車で送り届けることもあった。途中でお菓子をお土産に買ってくれるが、家が近づくと彼は暗い場所に車を止め、何度も性加害を行った。
 「2年まではいかないくらい続いた。1週間から10日に1回はあった」
 喜多川氏はその後、自分たちと同じくらいの年の男児を集め、少年野球団を結成。松崎さんも入ったが約1年後に退団した。最後にボウリング場で偶然会った時、喜多川氏は新しい男の子に肩から首に手を回して歩いていて、自分に対しては(性的な)興味を失ったようだった。これで、もうあのような悪夢はなくなると感じた。

ジャニー喜多川氏による性加害を証言する俳優の服部吉次さん=7月15日、東京都内

 ▽服部良一の葬儀で親族席に座った喜多川氏
 吉次さんの父、服部良一は、笠置シヅ子の「東京ブギウギ」や映画主題歌「青い山脈」「銀座カンカン娘」など、数々のヒット曲を世に送り出し、戦後歌謡界の頂点に立った作曲家だ。第2次世界大戦後に良一は、笠置らとアメリカ公演を行っている。この際、現地で裏方として支えたのが、米ロサンゼルス生まれの喜多川氏だったという。
 1950年に始まった朝鮮戦争に、米国籍も持っていた喜多川氏は従軍した。前後して日本に帰国する。服部家に親しく出入りするようになったのは、この頃だ。いちど、軍服姿で家を訪ね、帰るときに異常なほど時間をかけて靴ひもを結び、一言「あー嫌だな、行きたくないな」と言ったことを、吉次さんははっきり覚えている。
 あれは、戦地に行きたくないということだったのか。なぜ、彼が自分にあのような行為をしたのかを考えると、朝鮮戦争を経験した心的外傷後ストレス障害(PTSD)も影響したのではないかなどと想像してしまうという。
 喜多川氏は1962年、ジャニーズ事務所を創業。その後も服部家とは長年、公私にわたって交流を続けた。しかし、「僕とはほとんど口を利かなかったですけどね。彼は微妙な顔はしていましたね」
 1993年に良一が死去すると、喜多川氏は葬儀で服部家の親族席に座ったという。
 その年のNHK紅白歌合戦。ジャニーズ事務所の人気グループ「少年隊」は「服部良一メドレー」を歌った。事務所に所属する他のグループも、舞台公演で良一が手がけた曲をしばしばカバーしてきた。

東京都港区のジャニーズ事務所

 ▽「全部きれいに洗い流してもらいたい」
 国民的な人気を誇るグループや歌手らを多く輩出し、ジャニーズ事務所は日本の芸能界で大きな存在感を持つようになった。しかし、喜多川氏が事務所を作った意図を、吉次さんはこう見ていた。
 「こういったこと(性的欲求)を合理的に処理したい、自分が思い描くことをしたいと(事務所を)つくられたのでは」
 70年の沈黙を経て自身の性被害を公表しようと決意したのは、今年に入り、歌手のカウアン・オカモトさん(27)ら、ジャニーズ事務所の元所属タレントらが相次いで顔を出して告発に踏み切ったことが大きいという。
 「これまで発言できなかった後悔があった。テレビに映った(元)ジャニーズJr.の人たちを見て、思い切った」
 ジャニーズ事務所側は、外部の専門家による再発防止特別チームを立ち上げ、検証に当たっているが、吉次さんは「国が取り組まないと、事務所のことは片が付かないと思う。政府は容赦なく取り組むべきです」と突き放す。
 国際社会からも厳しい目が向けられている。国連人権理事会の「ビジネスと人権」作業部会の専門家は、性加害を告発している元ジャニーズJr.らから聞き取り調査を行った。松崎さんは「当然のこと」と評価する。「ぜひ、全部きれいに洗い流してもらいたいな、と思います。こういうことが芸能界からなくなってほしい」

【動画のロングバージョン(2分9秒)はこちら】https://youtu.be/3cuy9e4aIJc
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