「セメント王」浅野総一郎物語⑩ 妻サクとともにセメント工場で汗

出町譲(高岡市議会議員・作家)

【まとめ】

・総一郎とサクは、工場に出て現場主義を貫いた。

・組織が一致団結し、前向きに進む原動力となった。

・浅野夫婦の一直線な生き方が、渋沢栄一含む多くの人々を引き付けた。

東京・深川にあった官営セメント工場は明治16年4月、払い下げられました。これが「セメント王」となるきっかけとなったのです。総一郎はついに、完全に工場の経営権を握り、浅野セメント工場となりました。

払い下げの総額は12万5000円です。このうち、5万円は現金で支払い、残り7万5000円については、10年間の分割支払です。

当時、総一郎は第一国立銀行に7万円の預金を持っていました。第一国立銀行の頭取も務める渋沢栄一は「もし浅野さんが損を出したら、自分も3分の1まで負担する」とまで言ってくれました。それにしても、総一郎と渋沢は深い信頼関係ですね。

総一郎は早朝5時に工場に行きました。6時に出勤する職工、1人1人に声を掛けます。名前を呼んで、「頑張ってください」と激励しました。工場の空気を吸って、現場主義を貫く姿勢を見せたのです。

職工たちがストライキを起し、サボタージュしたこともありましたが、総一郎は動じません。誰よりも働き、誰よりもセメントについて深い知識を持ったのです。職工も文句を言えず、すぐに職場に復帰しました。

セメント工場は粉塵が舞っており、ひと回りすると真っ白になります。お客が来ると、セメントで真っ白に汚れた作業服をパタパタと叩きながら、応接室でお茶を出す。どんなに偉い人が訪れても、同じスタイル。恰好を気にせず、応対した。経理も自らが担当しました。夜は習いたての簿記で、すべての売り上げや経費を記帳しました。

セメント工場内では通路の床面が熱く、とても草履では歩けません。職工は下駄をはいていました。必需品ともいえるが、そこで使用される下駄の数は余りに多かったのです。

ここで私は、サクの行動に注目します。

「鼻緒が切れただけで、惜しげもなく捨て、新品を要求している人も多いのですよ。きのう工場の中を掃除すると、セメントの粉に埋もれて50足以上の下駄が出てきました。あまりに野放図な使い方で、もったいないと思うのです」。

こんな発言をした後、鼻緒の切れた下駄を入れる袋を工場の入り口に置いたのです。

サクは一週間ほどたって、袋から下駄をとり出しました。そして、まずは工場の隣の隅田川で洗います。その後、針と糸で鼻緒を直します。そして下駄を工場の入り口に並べました。新品ではないが、まだまだ使えるものばかりです。

いわば社長の奥さんが下駄を洗い、鼻緒を直したのです。「奥さんの目線は低い」という評判となり、サクのファンが増えました。

サクは工場内に毎日出入りしました。手拭いを頭にかぶり、歩いたのです。回転釜の熱も、電動機やスクリューの轟音も、気にしない。セメントにうずもれた工場内で、梯子で2階や3階にも平気で上ったのです。

総一郎、そしてサクは現場に出て、職工と同じ空気を吸いました。それは、現場主義、率先垂範の姿勢に映り、組織が一致団結し、前向きに進む原動力となったのです。セメント工場では、粉塵が飛び交っていました。空気は悪い。早朝から工場に入って陣頭指揮を執る総一郎はある日、喉を痛め、吐血しました。

それにしても、モーレツな仕事師ですね。その一直線な生き方が、渋沢栄一含めて多くの同時代の人々を引き付けたのです。

(その⑪に続く。

トップ写真:浅野総一郎の像(神奈川県横浜市、浅野学園にて)ⒸJapan In-depth編集部

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