「セメント王」浅野総一郎物語⑪ 日本で初の西洋式公衆トイレ

出町譲(高岡市議会議員・作家)

【まとめ】

・浅野総一郎、公衆トイレの重要性を神奈川県知事に訴えた。

・県から管理費をもらう仕組みで横浜市内63カ所に公衆トイレを設置。

・総一郎が仕事をする判断基準は、近代国家に必要かどうか。

文明開化は、浅野総一郎のビジネスにも影響を与えました。横浜港は安政6(1859)年に開港され、外国人居留地ができました。前年に結ばれた日米修好通商条約などに基づくもので、外国人が増えました。彼らが最も不便を感じたのは、真っ暗闇となる夜でした。ガス灯を設置すべきだという声が高まり、明治5年10月31日、横浜の大江橋から、馬車道、本町通りにかけてガス灯10数基が完成しました。ガス灯は、新しい生活の幕開け。「文明開化」のシンボルとして、広まりました。

こうした横浜の居留外国人がもう一つ、不満に感じたのは、多くの日本人が立小便をしていたことです。「これでは近代国家ではない」という不満がくすぶりました。神奈川県もそれを気にして明治4年11月に、公衆便所を新設するよう指示したのです。しかし、その公衆便所は四斗樽を地面に埋め、板で囲いをしただけでした。

この状況を改善したのは、浅野総一郎です。石炭商として、横浜でも確固たる地位を築き、神奈川県の知事室にもよく出入りしていました。明治11年7月ごろ、知事の野村靖からこんな話を持ち掛けられました。

「ウチでは糞尿を、百姓が取りに来ず、溜まって困っている。引き取ってくれないか」

総一郎は、大量に集めることで初めて、燃料として利用できますと指摘しました。さらに、近代都市にふさわしい公衆トイレの重要性を訴えました。

野村は総一郎の言葉に共鳴。その後、横浜市内63カ所に西洋式の公衆トイレを設置することが決まりました。

数日後、総一郎は再び、衛生局長と面談しました。そこで、業者に見積もってもらった建設費を告げました。

「これだけの数のトイレを造るには2000円ぐらいかかります。県庁の方で負担してください」

「いやそれは困ります。県は財政難で厳しい状況です」。

押し問答となりました。交渉が決裂しそうになった際、衛生局長は打開策を提案したのです。建設費については、県が総一郎に貸し付ける。ただ一方で、総一郎は県から管理費をもらう仕組みです。

「管理費を払っていただけるなら、いいでしょ。私がやりましょう。」

建設工事は明治12年1月から一斉に始まりました。完成した新しい公衆トイレは、入り口が三方にあり、中には、大便所と小便所が設置されていました。また、建物の中央には、換気のための煙突のような塔を造っていたのです。文明開化の雰囲気が漂う建物でした。

総一郎が受け取った管理費は年間で2400円です。契約期間は10年あり、総一郎は下請け業者に支払った分を差し引いても、巨額の利益を手にしたのです。

総一郎は、このトイレの管理業務についても、決して手を抜きません。早朝4時に起きて、市内63カ所のトイレを巡回。糞であふれ出る恐れのあるところを手帳に書き留め、そこに作業員を派遣しました。

それにしても総一郎はさまざまな作業を自らこなしました。現場に出て自ら動くのは、総一郎流なのです。ただ、仕事をする際、大きな判断基準がありました、近代国家に必要かどうかです。きちんとした公衆トイレがないのは、近代国家としては恥ずかしい。そう思って、知事に進言しました。単なる金儲けだけではない姿勢なのです。

(⑫につづく。

トップ写真:明治時代の横浜の様子と思われる写真(本文とは関係ありません)出典:ilbusca/GettyImages

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