「画になる旅の趣」肱川街道写真紀行 第3章 大洲風景讃歌

第3章 大洲風景讃歌

四人の企業戦士(2018年8月28日撮影)## 「旅のやすらぎ」・・・人と人とのつながりや交流

人々が旅をしたいと想う時、自分で描いていた行き先などの写真を目にすることでそこを訪ねてみたいと思うのだろう。では、その旅に何を求めるのか。人それぞれではあるが、いくつかある中の一つのキーワードとして「やすらぎ」があるのかもしれない。

では、「旅のやすらぎ」とは何だろう。行く先々で出会った見知らぬ人々との会話でいやされ、その地域ごとに一生懸命取り組んでいらっしゃる姿勢と「もてなし」ぶりに感動。そして、必ずやまた訪れたいと心に秘める・・・。

旅から戻り、手に入れた絵はがきなどに一筆添えて投函する。10日もしないうちにご一緒していただいた旅先の方々から返事か戻ってきたりしたら、そりゃあ幸せこの上ないのだ。あそこへ行って良かったと思う瞬間だ。

人と人のつながりや交流を、ことのほか大切にしていた現職時代。それは、大学卒業後就職したトヨタ系ディーラーでの新車販売を担当する営業マン時代に会得したもので、体中にしみこんでいる。このことが、立場を変えて、城下町大洲の集客基盤創出をつかさどる時、今思えば、自らの財産となり地域にもプラスに働いた。

「ふるさと」・・・想う気持ち

2018年7月7日、大洲市は肱川上流の二つのダムが数日前から降り続いていた大雨に耐えきれず、非常事態を宣言して放流した。その結果、下流域の大洲盆地は悲惨な状態だった。

当時現役を退く決意をして関係機関などで私の退任に向けた様々な調整が進められていた最中の出来事だった。よりによって、最後の年にこんなことになるのは、何の巡り合わせだろうかと落ち込んだ。

冒頭の写真、大手商社を退職した企業戦士4人組。この時、既に70歳代半ばを過ぎておられた。右端のハットの男性が大洲の方で、この年の水害によって大きな打撃をこうむった「ふるさと」をおもんぱかり、仲間と鵜飼いをしたいとのご連絡をいただいた。その時、私が町中をご案内をさせていただいた。

残念ながら、当時の記憶が定かでない部分もあるが、撮らせていただいたこの写真を絵はがきにしてお送りし、大変喜んでいただいた。

その日の夜は満月だった。鵜飼いの案内を終え、お見送りをして片付け仕事を終えて会社を後にする時、夜の町中をカメラ持ってブラブラするのが、なによりもいやしのひとときだった。

次の写真、その時に撮影したおはなはん通りだ。夕暮れ時にはこの場所で4人の皆さんを写したことを思い出しながら、何とも言えない良い雰囲気に酔いしれていた。

おはなはん通り(2018年8月28日撮影)## 「自らの人生」・・・感動する出来事に出会う旅

感動に出会うことは、受け入れる私たち地域側の対応いかんで逆にもなり得る。良いことばかりはないのだ。色々と経験したがその一つひとつをしっかりと振り返り考えることで、自らの資産となっていく。

それは個人にも地域でも同じことが言える。念ずれば花開く。気持ちを込めれば感動は生まれる。それが旅人とのふれあいであろうが写真であろうが、その接点がすべてを決する。そこを逃さず普段から考え活動することが私の基本でもある。

船頭さんも町並みに溶けこんで(2021年10月24日撮影)

町に溶け込んだような写真、お世話になった鵜飼い屋形船の船頭さんがこちらに向かってくる。当時、まだよちよち歩きのジュニアちゃんを連れてのお散歩中の一コマ。

臥龍山荘へと続くこの通りは、私が「城下町大洲」の「下町」という雰囲気を拡散するのに、最も多用した場所だ。中程に店舗を構えいつもバッタを作っていた岩はんが笑顔でお客様を迎えてくれた。そこを右に曲がって登ったら「旧加藤家下屋敷跡地」。その上には藩政時代に「西方寺」と「徳正寺」という二つの寺院がある。そして、明治末期に三つの神社を合祀してできあがった「大洲神社」。言わば、この町の物語の一つへと誘う特別な所なのだ。

「私の撮影テーマ」・・・写真は語る

これは、現職時代から取り組んでいた「情報受発信素材として写真を活用することによる集客交流基盤創出」によるものだ。SNSの進化とAIの熟度向上は世の中の仕組みを変えた。これを上手く活用し「自らの手で」対応していくことのできる地域と個人が最終的には生き残る時代が来ているのだろう。

生まれ変わりつつある町並み(2023年7月12日撮影)

つい先日の夜の写真、気持ちを込めて発信し続けてきた結果、後輩の皆さんが取り組んで見違えるような空間へと生成された街角。昼間だけでなく夜の散策を楽しむ方々も少なくないが、この角に立って撮影している時に思い出したのが、あの企業戦士の4人組との出会いのことだった。

プロ写真家として、他力に頼らず自らを高めていくことが、どれほど重要なことなのか。

経験を買っていただき、何とこの私が7月から一般社団法人佐田岬観光公社のDMOアドバイザー就任を要請された。もちろん、快諾した。

古希まで生かせていただいたことに感謝し、この町の歴史をリスペクトしながらこれまでの経験を活かして最後のミッションに挑戦する。そのために今日もシャッターを切るのだ。

(これまでの寄稿文章は、こちらから)

寄稿者 河野達郎(こうの・たつろう) 街づくり写真家 日本風景写真家協会会員

© 株式会社ツーリンクス