広島は、まもなく原爆投下から78年となる原爆の日(8月6日)を迎えます。核兵器を巡る緊張が高まっているなか、わたしたちは、これまでに取材した被爆者の方の声を今一度聞くことが大事だと思っています。今回、お伝えするのは、放射線の被害です。
原爆投下から間もなく、脱毛や下痢などを訴える被爆者が増え始めました。当時、広島市内や、近郊の小学校は、臨時の救護所となっていました。
大芝国民学校(現・大芝小学校 広島・西区)で、力なく横たわるのは、竹内ヨ子コ(よねこ)さん(当時 31歳)です。けがのなかったヨ子コさんですが、被爆から1か月後、体調が急変しました。
そばには、娘の陽子さん(当時 12歳)の姿もありました。足に大けがをしているだけでなく、髪の毛が抜け、腕は糸のようにやせ細っていました。
2人に付き添っていたのがは、竹内信之さんです。1995年に取材に応じた、信之さんは、「外傷のない母は助かる思っていた、大丈夫だと思っていた」と語っていました。
しかし、母のヨ子コさんは1945年10月、亡くなりました。そしてその翌月、妹の陽子さんも母を追うようにして、息を引き取りました。
放射線被害を伝え続ける頭髪が抜けた姉弟の姿
うつろな目でカメラを見つめるのは、池本アイ子さん(被爆当時 9歳)と弟の徹さん(同 7歳)です。頭髪が抜けた2人のきょうだいの姿は、放射線の被害を訴えるものとして、広く知られています。
1945年8月6日、2人は、爆心地から1キロの屋内で被爆しました。このときは幸い大きなけがをすることはありませんでした。しかし、数日後、2人の体に異変が起こります。
1994年にRCCの取材に応じた、2人の母、池本タメ子さんは、当時をこう振り返っていました。
池本タメ子さん(1994年 証言)
「(被爆してから)4~5日して髪が抜け出した。あまりに抜けるから、お父さんが『抜けるだけ抜け』って言ったら全部、なくなった」
歯ぐきからの出血や発熱も…。放射線による急性障害でした。
被爆から何年もたった後でも…
アイ子さんと徹さんは、その後、回復しまし、元気に過ごしていました。放射線による急性障害は、1945年の暮れにはおさまったと考えられていました。しかし、被爆から4年後のことです。
徹さんは遠足から帰ってきたあと、突然、体調を崩しました。歩くこともできませんでした。そのまま入院先の病院で死亡しました。まだ11歳でした。
姉のアイ子さんは、その後結婚し、子どもも授かることができました。しかし、被爆から20年たった29歳のとき、がんで亡くなりました。
2人の母 池本タメ子さん
「ええ子じゃった。わたしらが買い物に行って戻ったら、みそ汁こしらえてから待っとった。ええ子じゃったよね」
アイ子さん・徹さんきょうだいのように被爆から何年も後になって亡くなる人は後を経ちませんでした。
原爆の放射線は、何年たっても被爆者の体をむしばみ続けているのです。