山下達郎「CIRCUS TOWN」今もまったく古さを感じさせないニューヨーク録音の4曲!  初期山下達郎の名盤「CIRCUS TOWN」が限定リイシュー!

初期山下達郎の名盤「CIRCUS TOWN」当時の評価は?

2023年8月2日、山下達郎のファーストソロアルバム『CIRCUS TOWN』とセカンドアルバム『SPACY』のアナログ盤が、最新リマスター&ヴァイナル・カッティングによってリイシューされる。

これは5月から始まった山下達郎がRCA/Airレーベルに残した初期アルバム8作品のアナログリイシューシリーズの一環だが、『CIRCUS TOWN』のファーストリリースは1976年のことだから、今もそのアナログ盤に髙いニーズがあるというのはやはりすごいことだと思う。

今でこそ『CIRCUS TOWN』は初期山下達郎の名盤という評価が確立しているけれど、発表当時このアルバムに注目したのはごく一部のマニアックな音楽ファンだけだった。

それはけっして大袈裟な物言いではなく、通常のレコード店ではほとんど見向きもされなかったけれど、一部の輸入レコード店ではベストセラーになるという現象も実際にあった。今のようにSNSどころか海外情報も乏しかった時代に、国内盤が出ていないレコードを手に入れられる輸入レコード店は洋楽ファンにとって聖地だったしマニアの情報交換スポットでもあった。

そうした輸入レコード店の中には洋楽ファンの好みに合いそうな日本人アーティストのレコードを扱っている店もあって、『CIRCUS TOWN』も評判が良かった。もちろん、このアルバムがニューヨークとロサンゼルスでレコーディングされ、洋楽ファンにおなじみのミュージシャンが多数参加していることも、洋楽ファンの食指を動かしたのだとは思う。

改めて振り返ると『CIRCUS TOWN』はかなり特異な作品だ。

次にソロで目指すべき方向性に迷っていた山下達郎

1976年4月1日の荻窪ロフトライブを最後にシュガーベイブは解散、山下達郎は自分の進路に悩んでいた。というのも、シュガーベイブは1975年にアルバム『SONGS』をリリースしているが、そのタイミングでメンバーチェンジがありサウンドも進化していった。しかし新しい方向性を示すはずのセカンドアルバムを制作する前にバンドが解散してしまったことで、次にソロで目指すべき方向性に迷っていた。

シュガーベイブでは山下達郎自身が「きれいなメロディーと強いリズム」と表現する、ブルーアイドソウルやロックンロールを下敷きにしたコンテンポラリーなビートサウンドにアプローチしていった。

しかし、当時の日本のロックの風潮とはあまりにかけ離れたその音楽スタイルはなかなか理解されず、シュガーベイブはバブルガム的なポップグループと見られることが多かった。

ソロとして本格的に活動をするのかを決める前に、自分の音楽がどんな場所にいるのかを確認する必要があると考えた山下達郎は、ソロデビューの誘いをかけてきたレコード会社に対してレコーディングをニューヨークで行うこと、そして自分の指名するプロデューサーを起用すること、という条件をつけた。

アメリカンシーンの重鎮たちに自分を委ね、音楽家としてのクオリティとキャパシティを計る

彼が考えていたのは、自分の音楽のルーツである60'sアメリカンポップス(そこにはもちろんロックンロールも含まれる)と1970年代のコンテンポラリーミュージックの両方を並列的に扱えるプロデューサー、アレンジャーに自分を委ねることで、自分の音楽家としてのクオリティとキャパシティを計ってみようということだった。

実際に山下達郎が候補としてあげたのはチャーリー・カレロ(フォーシーズンズ、ニール・ダイヤモンド、ローラ・ニーロなどを手掛けた)、トレイド・マーティン(エリック・アンダーソン、トーケンズなどを手掛けた)、アル・ゴルゴ二(バリー・マン、サイモン&ガーファンクルなどを手掛けた)といった、まさにアメリカンシーンの重鎮たちだった。

この条件に対して手を挙げたのはRCAレコード(当時)のディレクターだった小杉理宇造だけだった。小杉は実際に自らニューヨークにチャーリー・カレロを訪ねてOKを取り付けてきたのだった。

しかし、当時フランキー・ヴァリの「瞳の面影」の大ヒットなどで脚光を浴びていたチャーリー・カレロのギャランティは非常に高く、全曲を依頼する予算は無かった。そのためにチャーリー・カレロには5曲を依頼(アルバムには4曲収録)、残りは小杉がレコーディング経験のあるロサンゼルスで、フライング・バリット・ブラザーズのメンバーだったジミー・サイターと、弟でスパンキー&アワ・ギャングにいたジョン・サイターを中心にレコーディングすることとなった。

『CIRCUS TOWN』のリリース時には、意識的にニューヨークサイドとロサンゼルスサイドを対比させるようなプロモーションもあったような気がするが、実際の山下達郎の想いはあくまでニューヨークでチャーリー・カレロのプロデュース、アレンジでレコーディングを行うことに重きが置かれていたのだ。

レコーディングアーティストとしての山下達郎の原点

ニューヨーク・レコーディングのミュージシャンは山下達郎がセレクトし、チャーリー・カレロが書いたスコアで演奏が行われた。山下達郎自身もまだレコーディング経験も少なかった時代でもあり、レコーディング現場はきわめて緊張感あふれるものだったという。しかし、そのセッションを通じて彼はニューヨークの一流の音楽プロデューサー、そしてトッププレイヤーの力量とプロ意識にあふれた仕事の作法を痛感している。

この経験がレコーディングアーティストとしての山下達郎の原点となっているのは確かだと思う。

山下達郎は、このレコーディングの時にチャーリー・カレロに好きなミュージシャンを聞かれて、ドラムはハル・ブレイン、ベースはジョー・オズボーンと答えた。それに対してチャーリー・カレロは「彼らは1967年には有名だったけど、今は違う」と言ったというエピソードがある。山下達郎は、その言葉を、ポップミュージックに携わっている以上、常に今を考えている必要がある、というメッセージと受け取った。

さらに、ニューヨークでのセッションが終わった時、チャーリー・カレロは自分が書いたアレンスコアを山下達郎にプレゼントした。それはけっして誰にでもしていることではないというが、このスコアを分析して、山下達郎は自分のストリングスアレンジのスタイルをつくりあげていく。

ニューヨークのセッションに対して、ロサンゼルスのレコーディングはかなりリラックスしたものだったようだ。ニューヨークではすべてをチャーリー・カレロに任せたが、ロサンゼルスでは、演奏力に問題のあるプレイヤーが入っていたこともあり、山下達郎自身がアレンジやプロデュースにも深く関与してレコーディングが行われたと聞く。

ニューヨークサイドとロサンゼルスサイドではっきりと違う表情

レコードを聴いてニューヨークサイドとロサンゼルスサイドではっきりと違う表情が感じられるのは、事前にニューヨーク用とロサンゼルス用に曲が書き分けられていたこともあるけれど、それぞれのレコーディング現場のテンションの違いもサウンドに出ているのだと思う。

山下達郎にとって、『CIRCUS TOWN』はけっして商業的成功を狙ったものではなく、自分の音楽家としてのポジションと可能性を計る実験的作品だった。

レコーディングを終えて、彼は自分の考える方向性が音楽的に的外れなものではないと確認し、本格的にアーティストとしての活動を続けていくことになる。

その後、結果として商業的にも成功を収めることになるけれど、ルーツを明確にしながらコンテンポラリーな作品を追求していく姿勢は、基本的には『CIRCUS TOWN』の時から変わっていないと思う。

今の成熟した歌で味わいたい「CIRCUS TOWN」の醍醐味

久しぶりに『CIRCUS TOWN』を聴き直して強く感じるのは、ニューヨークサイドの4曲の演奏が今もまったく古さを感じさせないことだ。そのサウンドクオリティの高さと完成度は2023年に聴いても圧倒的だ。それに対してロサンゼルスサイドのセッションを今聴くと、1970年代の匂いが強く感じられるのも良い味になっていると思う。

山下達郎自身は『CIRCUS TOWN』に対して「悔いがあるのは歌だけ」と言っている。確かにまだレコーディングに慣れていない時期に、限られた時間で録らなければならなかったヴォーカルに不満が残ることも理解できる。

けれどこのアルバムに収められている「Windy Lady」「Last Step」「夏の陽」などはライブでも良く演奏されているレパートリーだ。だから『CIRCUS TOWN』の醍醐味を、今の成熟した歌で味わうこともけっして不可能なことではないだろう。

カタリベ: 前田祥丈

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