小説=流氓=薄倖移民の痛恨歌=矢嶋健介 著=35

「そうよ、良くなったらお父ちゃんの好きなお酒も買ってくるわ」
 律子は声を詰まらせながら言った。その声に安心したように、田倉は眼を閉じた。酒と女に明け暮れた往時を夢に見ているのか。それを理解し、慰めてくれる律子の言葉に安堵したのか……
 二時間して眼を覚ました時は、正気に戻って、
「いや、身体がだるい。息切れがする。もう駄目だな」
 と言った。開けた眼を、すぐまた閉じて、
「俺は極道者だった。こんな所へお前たちを連れてきてしもうて、何もええことあらへん、困ったもんや。俺が死んだら日本の兄貴へ手紙を出すとええ。俺は何も頼める資格はあらへんけど、お前らが頼めば兄貴は聞いてくれる筈や。金を送ってもらって日本に帰るといい。兄貴に預けてある恩給と、ちょっとした田畑があるさかい、俺のような道楽者がいなければ何とか食べていけるやろ」
 家族を哀れむ言葉など出したことのない田倉が、そんなことを言うのは家族に対する遺言ではあるまいかと思うと、めったに泣き言を言わないはぎも瞼を押さえた。律子は、ここで田倉を死なせてはならないと思い続けた。親戚や知人に多く不義理を重ねた父親かもしれない。自分がいなければ妻や子は日本に帰っても、卑屈にならず暮らしていけると思っているのだろう。しかし、今帰国して、あの不景気の国で何ができると言うのか。それより田倉が快癒し、母も元気になって三人で働けば、この国でもやっていける筈だ。仕事に慣れないのと、病魔が一家の生活を困難にしているが、これさえ克服すれば、きっと明るい前途が開けてくるに違いない。
「あのね、お母ちゃん、お父ちゃんがよく言ってたやないの。困った時は俺の洋服や着物を売ったらいいって。あれ誰かに買って貰って、お父ちゃんの薬代にしたら。もう耕地ではこれ以上貸せない、と言っているし」
 律子は勇気を出して言った。
「誰に買ってもらうのよ」
「裏の植民地の、あれ、この前八代さんの仲裁にきやはった岡野さんあたりに頼んでみたらと思うの。コーヒー植付けの契約農というし、生活に余裕もあるみたいよ」
 はぎは部屋隅の柳行李を開き、自身が大事にしていた晴れ着を取り出した。
「じゃ、いつかこれを頼んでみてくれる」
「今日、これから行ってくるわ」
 日は暮れていたが、決めるとじっとしていられぬ律子だった。彼女は弟の浩二を連れて家をでた。

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