「セメント王」浅野総一郎物語⑫東京、横浜に近い常磐炭鉱を運営

出町譲(高岡市議会議員・作家)

【まとめ】

・明治16年、総一郎は渋沢栄一と磐城炭鉱会社を設立。

・ネックは、石炭の輸送手段だった。

・鉄道(今の常磐線)を敷設し、日本近代化の礎を築いた。

浅野総一郎は間違いなく、日本の近代化の礎を築いた人物です。炭鉱のビジネスも手掛けました。磐城炭鉱です。

磐城地方の有力者が明治16年ごろ上京し、総一郎に磐城炭鉱の開発を持ちかけたのです。「磐城では豊富に石炭が取れますが、我々地元の地元資本だけの開発では限界があります。本格的な開発には、東京の資本が必要です」

総一郎にとっては「渡りに船」でした。当時の石炭の産地は、九州や北海道が中心。西南戦争の際、九州からの石炭の輸送が途絶え、東京や横浜では石炭価格が暴騰しました。その苦い経験から、もっと近いところに炭鉱が必要だと考えていたのです。

総一郎は実際に、磐城炭鉱を何度も視察していました。ただ、そこで目にしたのは、厳しい現実でした。家族単位で作業を行う小規模経営ばかりだったのです。

絶好のチャンスです。渋沢栄一にも声を掛け、磐城炭鉱の本格開発に踏み切ることにしました。それが明治16年に設立された磐城炭鉱会社です。総一郎は資本金の総額4万円のうち、1万500円を支払いました。渋沢は6000円出資しました。

磐城炭鉱をどのように経営するのか。総一郎と渋沢は意見が対立しました。

「浅野君、この地方で採掘した炭鉱はこれまで5000坪でした。当面は、その程度の規模にし、今後増やしていくのはどうか」

これに難色を示したのが、総一郎です。「いやそれでは小さすぎます。石炭は今後、膨大な量が必要になります。今回一気に250万坪の採掘をしたらどうでしょうか」。

東京や横浜の需要を予測すると、少しずつ増やしていくのでは間に合わないと考えたのです。総一郎は、日本経済の大きな飛躍を確信していたのです。磐城炭鉱の鉱脈は実際、豊富でした。どんどん石炭が採掘されました。

しかし、ネックとなったのは、石炭を消費地に輸送する手段でした。炭鉱から馬や牛の背中に石炭を載せ、港まで運搬。港から東京や横浜までのルートです。帆船で運ぶですが、海は大荒れとなることが多く、転覆事故がしばしば起きたのです。時間的にもコスト面でもムダがいっぱいです。輸送費のアップで、石炭の価格は上昇しました。磐城炭鉱は赤字に陥り、無配当が続いたのです。

それでも総一郎は撤退する気はありません。日本経済が東京を中心に発展するためには、磐城炭鉱は不可欠だと感じたからです。苦境を脱するためには、鉄道の敷設が重要です。それにしても、総一郎は大きなことを考えますよね。

ちょうどこのころ、岩倉具視など華族が出資して誕生した日本初の私鉄である日本鉄道は、上野を出発し、宇都宮、郡山、福島を経て仙台に向かう東北本線を完成させました。内陸部を通って東北に通じる鉄道で、北日本の交通の便が一気に改善しました。

それに倣って総一郎は、福島の平町(現在いわき市)から上野まで太平洋岸を走る海岸線を敷設する計画を打ち出した。専門家と一緒に現地視察した結果、200万円があれば、平町と上野間の路線を完成できることが分かりました。実現すれば、磐城鉱山で産出された石炭は採掘した翌日に、東京や横浜の工場まで運ぶことができます。

総一郎は渋沢栄一らと一緒に建設の出願書を、鉄道省に提出しました。この海岸線は明治30年、完成しました。これで石炭は東京まで陸路で運搬できるようになったのです。この結果、磐城鉱山の経営は大幅に改善し、1、2割の配当を出しました。この海岸線は、今の常磐線となっています。

炭鉱をきっかけに、鉄道まで敷設する。まさしく、近代化の下地を総一郎はつくったのです。

(⑬につづく。

トップ写真:磐城炭鉱株式会社炭坑

出典:国立国会図書館「写真の中の明治・大正」

© 株式会社安倍宏行