父は二重被爆者だったのか 手帳申請で分かった事実 残せなかった記録と記者の後悔

原爆投下後の広島、長崎で目にした状況を記した父の被爆者健康手帳交付申請書や申請却下通知書など

 1945年8月、記者の父、故平田有隣(ありちか)は広島と長崎にそれぞれ入市し、被爆した「二重被爆者」の可能性があった-。配属先の神奈川県から長崎に戻る途中、二つの町の惨状を目にしていた経験を言葉と文章で残していた。72年後、被爆者健康手帳の交付申請の途中で、父は息を引き取った。父の被爆とは何だったのか。手元に残る資料をひもといてみた。
 
◎父の病
 
 聞いていた父の足跡は、ほんのわずかだった。27年1月30日、新上五島町(当時の有川町)生まれ。44年、旧制長崎中学を卒業後、海軍特別幹部練習生として佐世保市相浦の海兵団に入団。「原爆投下後の長崎市住吉方面から歩いて入り、学生時代に下宿していた旧今籠町の親戚宅に立ち寄った」という。
 戦後、上五島で働いた父は手帳を取得しなかった。面倒くさがりな一面もあったし、父なりの考えがあったのか。周囲に勧められ、申請を口にしたのは70歳を過ぎたころ。母も健在だったので口出ししなかった。
 しかし、父の身体はがんにむしばまれていた。1988年、直腸がんを患い、母が2010年に死去した後、大腸がんが発覚。その後も横行結腸がん、胆管がんなどに苦しんだ。再発でなく完治した後、新たに見つかることの繰り返し。親兄弟にがん経験者はいない。
 「なぜ父だけ、がんにかかるのか。原爆と関係があるのでは」。こう疑い、父の手帳申請を考え始めたが、なかなか手を付けられずにいた。

◎真相を求め
 
 2017年2月、長崎市の病院に入院していた父の容体が芳しくなくなった。再び被爆者健康手帳の申請を考え、市原爆被爆対策部援護課を訪ねた。1945年8月9日の原爆投下から2週間以内に爆心地から約2キロ内に立ち入った人は「入市被爆」にあたる。長崎の場合、同23日まで。父が長崎に入った正確な日付は分からなかったが、もし被爆者だったら、記録を残すべきではないか。被爆者と認められるかどうか、確かめたいという思いも強くなった。
 長崎への入市被爆を証明する書類をそろえて申請したのが2017年3月下旬。約4カ月後、却下通知が届いた。理由を尋ねると、入市のルートとその証明が不十分だったという。
 しかし、市は審査時、父の軍歴を調べていた。父は相浦の海兵団を経て、1944年に開校した海軍電測学校(神奈川県藤沢市)に入校。艦船や地上基地のレーダー技術者の養成学校だった。「全国から数十名が集められたよう。優秀な人だったのですね」。長崎市の担当者から知らなかった父の足取りを教えられ、驚いた。さらに、終戦後の45年8月16日か17日、長崎へ帰郷するため、同校を出発したことも教えられた。
 この話を聞き、父の話をふと思い出した。「長崎に帰る途中、列車で入った広島駅周辺の被害はひどかった」。市の担当者に説明すると、思いもしなかった答えが返ってきた。「広島で入市被爆した可能性があるのではないか」

◎希少な体験
 
 広島の場合、45年8月6日から20日までの間に爆心地から約2キロ内に入った人が入市被爆に該当する。終戦後、藤沢の同校を出た父は、20日までの間に広島に入ったかもしれない-。足取りを裏付ける資料がないか。自宅を探すと父の文章が記された出版物があった。
 「祖国の回復のため、藤沢海軍電測学校に入校、富士山の見える地で教練に励むが、戦争は終結」
 「空腹をかみしめて眺めていた車窓から、被爆地広島市街周辺の生々しく飛び散る火の粉を目の当たりにした」
 日付はなかったが、父は広島でも惨状を目にしていた。手帳審査がなければ、知ることのない事実だった。
 2017年8月下旬、長崎での入市被爆を裏付ける追加資料に加え、広島での入市被爆で手帳申請を急いだ。しかし、父の容体は悪化、同30日未明、息を引き取った。90歳だった。

家族旅行を楽しむ父、有隣(左)と母=大分県、2009年4月撮影

 父が逝った朝、市に申請書類を出した。数日後、市から本人死亡を理由に不受理を伝える電話を受け、思い切って聞いてみた。「(提出した)申請書類なら被爆者と認められましたか」。市の担当者は静かな口調で答えた。「たぶん、認められたでしょう」
 父の話が間違っていなければ、広島と長崎の「二重被爆者」だった-。広島、長崎両市によると現時点で二重被爆者の数は不明。「存在は確認しているが、全体像は把握していない」という。全体像が分からないほど、父の体験は希少だったのか。遅きに失した手帳申請。記録を残せなかったことが澱(おり)のように深く胸に残り、考えると苦しくなる。ただ、私の尊い父のままで変わりはない。もうすぐ七回忌を迎える。

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