80歳の現役女優・佐々木愛さんが孫娘へと引き継ぐ「舞台でしか味わえないモヤモヤ」

娘の明子さん(左)と孫の琴音さん(右)に挟まれ笑顔を見せる佐々木愛さん

【前編】「今日も明日も満員御礼」老舗劇団を女性4世代で守り続ける80歳の現役女優・佐々木愛さんより続く

80歳の誕生日を目前に控えながら、2時間40分の間、ほとんど舞台に出ずっぱり。しかも、劇場の隅々まで響きわたる声、その圧倒的な存在感で観客を魅了した劇団「文化座」代表の佐々木愛さん。

終演後、劇場ロビーに向かうと、そこには制作部の原田明子さん(45)と劇団最年少の女優・原田琴音さん(22)の姿が。

3人は同じ文化座の劇団員というだけでなく、祖母、娘、孫の関係でもある。

劇団を創設した女優の一人は愛さんの実母であり、つまり愛さんたちは「女4世代」にわたって、文化座とわが国の新劇を表に陰に支えてきた長い歴史がある。

1987年、愛さんが高齢の母親に代わり文化座代表に就任して6年後、夫の進平さんが硬膜下血腫で急逝。くしくも、父親と同じ58歳の若さだった。

「そのとき私は49歳でした。父が亡くなったときに、母もまた49歳。『私たち、同じ境遇なんだね』との言葉が忘れられません」

進平さんが亡くなったときに15歳だった愛さんの長女の明子さんも、やがて進路を考える年ごろとなる。

「祖母の(鈴木)光枝は家の内でも外でも“女優さま”で、母は“お嬢”のイメージ。私自身、女優2代とわかっていましたから、いつしか母親像は求めなくなっていました。

でも、寂しくもなかったんです。近所で懇意にしていたご家族が、まさに『サザエさん』一家のようなにぎわいで、私もその一員としてなじんでいたから。

母からは、いつも『好きなことをしたら、いいのよ』と言われて育ちました」(明子さん)

高校卒業後に青年座の研究所に2年間通ったが、結果として、彼女は女優の道を選ばなかった。

「母のすすめで劇団の研究所に入ったのは、せっかくいただいたDNAなので、単純に芝居の世界をのぞいてみたかったから。研究所を出て次の進路を考える前に21歳で結婚し、22歳で長男、23歳で琴音を産んだときに、私の中で女優の道は消えました。だって私が理想としていた生活は、あの我孫子の『サザエさん』一家。いつも子供の帰りを待つお母さんになりたかったんです」(明子さん)

劇団創設者の一人でもあった光枝さんが、創立65周年を見届けるようにして88歳で亡くなったのは2007年。その追悼公演が、明子さんの娘で、まだ保育園児だった“ひ孫”の琴音さんの初舞台となる。

「どうする。お芝居に出る? それとも保育園の運動会に出る?」

座長であり、祖母でもある愛さんの問いかけに、まだ6歳だった琴音さんは、悩んだ末に答えた。

「舞台に出る」

こうして鈴木光枝追悼公演に子役として出演し、40日間の旅巡業も体験した。

琴音さんが言う。

「その後も文化座の近くに住んでいましたから、小学校の通学路に稽古場があって、放課後はランドセルを置いて大道具さんの仕事を手伝ったりするのが日常でした」

東日本大震災を機に愛さんとの同居も始まり、やがて明子さんも制作部で働き始める。

「もともと人と関わるのも、5歳でクラシックバレエを始めてからは目立つのも好きでした(笑)」と話す琴音さん。中高とスポーツに熱中し、卒業後の進路に悩んでいたとき助言をくれたのはやはり祖母だった。当の愛さんが語る。

「明子もそうでしたが、孫の琴音もこの家に生まれたからといって演劇に縛るつもりはありませんでした。ただ同居していて、いろんなアルバイトをする姿は見ていたし、プロダクションからの琴音宛ての郵便物を目にすることが何度かあって、どうせやるならば、うちに来たほうがいいんじゃないかと思い(笑)、初めて声をかけました」

2020年12月に文化座に入座。翌年の『子供の時間』では愛さんとの共演も果たした。ちなみに制作を担当したのは明子さん。ここに女3世代の“共演”が実現。

琴音さんは、入座を決断した心境についてこう語る。

「芝居を観た後って、心がモヤモヤしますね。舞台にしかない、映画やテレビとは違う特別な感情だと思うんです。特にうちの劇団は、曽祖父母の時代から、戦争や平和に関する作品も多くて、観た人の心に必ず何かが残ると思うんです。そのモヤモヤを、自分なりに文化座の芝居を通じて伝えていきたいと思いました。

受け継いだDNAも“佐々木愛の孫”の看板も重いですが、その重圧をいちばん理解してくれるのも祖母だし、あとは私が負けず嫌いだったことも大きいかな(笑)」

けっしてわかりやすい内容ではないかもしれない。「重い」とか「暗い」と言われることも多い。しかし、観た人の心に必ず「モヤモヤ」を残す文化座の芝居を受け継ぎ、その不思議な感情を誰より大切にしてきたのが愛さんだった。

昨年は愛さんの舞台生活60年であり、劇団の創立80周年という節目の年。さらに沖縄返還から50年目のこの年に現地公演も果たした『命どぅ宝』は、まさに文化座ならではの作品といえるだろう。愛さんもこう語る。

「1970年の映画『沖縄』では母と共演し、復帰前の沖縄にもパスポート持参で行きました。当時から持ち続けた私の沖縄への思いを実現させたのが、敗戦後の沖縄の人たちの非暴力の闘いをテーマとした『命どぅ宝』、命こそ宝です」

そこには、父や母の代から孫世代まで脈々と受け継がれてきた、ある思いがあった。

「芝居を通じて平和への思いを訴え続けてきたなかで、父もそうでしたが、私も戦争反対のメッセージをダイレクトに掲げるのは好きじゃなかった。芝居をご覧になった方が、『そうか、社会の諸悪のもとに戦争があるんだ』と、それぞれの立場で気づいてもらえるような芝居作りを心がけてきました」

そんなとき、いつも思い出す母の言葉があった。

「満州で敗戦を迎えて抑留生活を送ったとき、私たちは何も知らされていなかった。でも今、あなたたちは、いくらでも情報を得られる社会に暮らしている」

女優としての生活を貫き、いつもは理屈っぽいことを口にしなかった光枝さんの言葉だけに、余計に心に残っている。

「今は、さらに情報があふれている時代。だから、『今度、戦争が起きたら、あなたたちの責任よ』と、そんな声が聞こえます」

文化座の芝居を観た人のなかには、感じたモヤモヤの正体を知ろうと歴史を学び直したり、芝居にゆかりの地を訪ねる人も多い。

「『命どぅ宝』を観て沖縄戦の史跡を巡ったり、『旅立つ家族』を観て韓国の済州島の李仲燮美術館まで訪ねるカップルもいらっしゃいました。そんな話を耳にするたび、役者として素直にうれしいし、ああ、舞台に立ち続けてきてよかったと思うんです」

■「たとえ劇場のモギリでも、私は芝居とずっと関わっていきたい」

「今、闇バイトとか、どうやったら人をだまして簡単にお金がもうけられるかという人が目立ちます。それに比べて、うちなんかにやってくる若い劇団員たちは不器用だけど実直なだけに、なんとか輝かせてやりたいと思うんです。

どうやったら、父の代から言われ続けている『新劇でメシは食えない』というのを破れるかと、いつも考えています。その一つの私なりの解答が、公演数を増やすことでした」

愛さんの語るとおり、6月から9月までの『旅立つ家族』の公演に続き、年内だけでも劇作家・三好十郎が主人公の『好日』やゴッホの苦悩を描いた『炎の人』の上演が待つ。

制作担当で、新人劇団員のケアもする明子さんは、

「コロナもあって、『舞台俳優をやりたい』という人が来るだけで奇跡(笑)。現在、劇団員は51人ですが、その大半がアルバイトをしながらの生活です。入団直後には自己主張ばかりだった青年が、たとえば私も制作で関わった『ハンナのかばん』に出演し、ホロコーストについて学んでいくなかで、いわば人として成長していく。それも、祖母や母たちから続く文化座の伝統だと思います」

今、『好日』の稽古に琴音さんたちは没頭している最中だが、この作品に愛さんは出演しない。明子さんが言う。

「いわば“脱・愛さん”で、若い世代が自分たちでお芝居を作り上げるという、劇団としても自立のための作品になると思います」

その愛さんは昨年、傘寿を目前にして三浦綾子の小説を舞台化した『母』に主演し、「佐々木愛主演の新作はこれが最後」と語っていたが。

「ただ私は、100%女優だけだった母とは違い、演劇に関わることが大好き。舞台に立つのはもちろん、やりたい企画もあるし、たとえ劇場のモギリでも芝居とはずっと関わっていきたい。

そうそう、来年2月に私も出演する火野葦平先生原作の『花と龍』の稽古もまもなく始まるのよ」

愛さんの芝居にかける思いと共に、文化座の舞台を通じて平和への願いもまた受け継がれていく。

© 株式会社光文社