「高岡発ニッポン再興」その93 岡山城で見えた!戦国時代、空襲、高度成長、アフターコロナ

出町譲(高岡市議会議員・作家)

【まとめ】

・昭和20年、空襲で市街地70%が焼け野原になった岡山市。

・岡山城は、2022年11月に「令和の大改修」を終えリニューアルオープン。

・アフターコロナのこの時期、多くの観光客が訪れている。

先日、岡山県の岡山市高岡市議会産業建設常任委員会のメンバーと一緒に、視察に行きました。何度も訪れていますが、市議会議員になって見ると、また違った風景が目に飛び込みます。改めて驚くのは、岡山の市街地の道路の広さ。「歴史と文化」の街なのに、整然としています。それに美しい岡山城。どんな街づくりをしたのでしょうか。

岡山市にとって、大きな節目となったのは、昭和20年6月29日。空襲に見舞われ、市街地は70%ほどが焼け野原になりました。そこから都市計画が本格的に動きました。

駅前通りは50メートル幅、烏城公園などの緑地公園の整備などの計画が盛り込まれました。焼け野原となったからこそ、一からのまちづくりとなったのです。その点では、同じく空襲に見舞われた、富山市と似ていますね。

さらに、ジョギングして見上げると、岡山城です。その外観に魅了されました。青空の下、外壁の黒がくっきり浮かび上がります。はっきりカラスのようなので、「烏城(うじょう)」と言われています。2022年11月に「令和の大改修」を終え、リニューアルオープンしたばかりでした。

岡山城は宇喜多秀家によって1597年に建造されたお城です。このころは、豊臣秀吉による天下統一事業も終わり、全国で城と城下町の整備が行われていた時期でした。現在残っている城は、関ヶ原合戦以降が多く、岡山城のころに、築造された天守閣は少ないのです。

宇喜多秀家と言えば、豊臣5大老の1人です。5大老は当初、徳川家康を筆頭に、毛利輝元、宇喜多秀家、小早川隆景、そして加賀藩の前田利家の5人でした。高岡の開祖、前田利長も、父、利家死後に5大老の1人になります。その利長が1609年につくったのは、高岡城です。5大老の宇喜多秀家と前田利長、それぞれがつくったのが、岡山城と高岡城なのです。不思議なご縁を感じます。

さて、この岡山城にも悲劇が待ち受けます。国宝だった岡山城の天守閣が、先にお伝えした空襲で焼失しました。

日本は焼け野原から復興し、高度経済成長に入ろうとしていた昭和35年(1960)。旧藩士を中心に岡山城再建期成同盟会が結成されました。天守閣再建の動きが本格したのです。

ちょうどこのころ、高度経済成長期に地域のシンボルとして城を再建するブームが起きていたいのです。ただ、多くは、「外観復元天守」です。岡山城のほか、名古屋城、広島城、若松城、熊本城(大天守、小天守)などです。鉄筋コンクリート造りです。

その後、岡山市がこの事業を引き継ぎ、融資と寄付金などをもとに、完成したのは、昭和41年11月でした。東京オリンピック開催の2年後です。

さらに、この復元した岡山城は、コロナが落ち着き、多くの観光客を迎えています。

岡山市を訪れながら、戦国時代を皮切りに、戦争と高度成長、さらにはアフターコロナにまでの歴史に思いをはせました。

(94につづく)

トップ写真:岡山城 出典:Photo by MIXA/Getty Images

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