無数の軍艦「海真っ黒」 激戦地・硫黄島出身の「あっちゃん」「ヤイ子ちゃん」 とちぎ戦後78年①

硫黄島出身の渡部さん(右)と原さん。戦後に那須で出会い、仲を深めてきた=7月、那須町高久乙

 78回目となる終戦記念日を15日に迎える。戦禍の中、人々はどのように生き、心に何を刻んだのか。戦争体験者が高齢化する中、その経験談と向き合い、それぞれの「あのとき」を伝える。

 「あっちゃん」「ヤイ子ちゃん」と、互いを呼び合う。那須町の渡部敦子(わたべあつこ)さん(93)と原(はら)ヤイ子(こ)さん(92)。40年以上前に知り合い、今はご近所さんとして毎日顔を合わせる。

 2人には共通点がある。戦前の硫黄島(東京都小笠原村)の出身同士。「よく生き残った。生きて島のことを話せるだけで今は楽しい」。原さんはそう話す。

 太平洋戦争末期の激戦地。壮絶を極めた「硫黄島の戦い」で戦死者は日本側約2万2千人、米側約6800人とされる。今も約1万1千柱の遺骨が眠る。戦前の豊かだった島の面影はなく、島民が再び暮らすことはできない。

 渡部さんは島の北西部生まれ。年中暖かく、「野菜がどんどん育ちバナナやマンゴー、サトウキビが豊富に採れた」。中心部には商店街や病院、学校があった。硫黄島神社での相撲大会や盆踊りは、大勢の島民でにぎやかだった。

 島は戦争で一変する。1944年。日本本土への攻撃拠点とすべく米国の空襲が激しくなり、渡部さんは学校に通えなくなった。無数の軍艦が浮かび、海が真っ黒に見えた。次々と襲ってくる艦砲、空襲。家も吹き飛ばされた。当時14歳。毎日隠れながら逃げるので精いっぱいだった。

 島民の強制疎開が始まった同年7月。渡部さんら家族は疎開船で東京に渡った。男性の住民は軍属として残された。「姉の夫やいとこら10人。誰も帰ってこなかった」。福島県の親族の家に身を寄せ迎えた終戦。その後は伊豆諸島の青ケ島や東京で暮らし、結婚した。

 年が一つ下の原さんは硫黄島の東部で生まれ育った。強制疎開により、東京で暮らした。戦後、那須町へ入植。山を一から開墾した。「掘っ立て小屋を作り、共同生活しながらの開拓だった」。7人きょうだいのうち2人は那須で生まれた。「寒いし、食べるものもない。本当に大変だった」

 原さんは硫黄島で過ごす夢を見ることがある。ふと考える。「あの恐ろしい戦争がなければ、今ごろどんな暮らしをしていたのか」

 渡部さんと原さんは、墓参りや慰霊で何度も島を訪れてきた。渡部さんは「多くの人が亡くなり、寂しい気持ちになる。帰りたいという島民はたくさんいた。でもどうにもならない」

 渡部さんは、硫黄島出身の原さんがいる那須を度々訪れ、那須で暮らすようになった。戦争で奪われた故郷。2人の思い出話の中でだけ、島はかつての豊かさを取り戻す。

   ◇    ◇
 15日、78回目の終戦記念日を迎える。戦禍の中、人々はどのように生きたのか。戦争はそれぞれの心に何を刻んだのか。戦争体験者が高齢化する中、その経験談と向き合い、それぞれの「あの時」を伝える。

硫黄島の周辺地図
硫黄島の浜辺で採れる鶉石(うずらいし)。墓参の際、全国硫黄島島民の会からもらった
硫黄島神社前で撮影した正月の記念写真に写る原さん
硫黄島出身の渡部さん(右)と原さん。戦後に那須町で出会い、仲を深めてきた=7月、那須町高久乙

© 株式会社下野新聞社