ディスコブームの反動?シックによる【ダイアナ・ロス】のプロデュースは成功したのか  大好評!連載「リ・リ・リリッスン・エイティーズ〜80年代を聴き返す〜 」

リ・リ・リリッスン・エイティーズ〜80年代を聴き返す〜 Vol.44
Diana Ross / Diana

ディスコブームとその終焉

近頃は音楽も嗜好が千差万別で、あるひとつのジャンルやスタイルが特に人気を集める、いわゆる “ブーム” ってやつが、なくなったとは言わないまでも、そのスケールにおいてとても小さくなってしまったように感じます。みうらじゅんさんの「マイブーム」という言葉がブームになったことがそれを裏付けます。マイブームが「アワブーム」にならないのです。

が、前世紀には歴然とありましたね。ポップミュージックの歴史とはブームの変遷だと言ってもいいくらいです。そしてポップス史を彩った幾多のブームのうちの、最大の “大波” のひとつが、70年代後半から80年代初めにかけての「ディスコ・ブーム」でした。

最盛期の70年代末には、個々のアーティストよりもディスコというスタイルのほうが幅を利かせているような勢いでした。名前も知らない新人シンガーだろうが、実体のない架空バンドだろうが、ディスコサウンドに乗ってキャッチーでありさえすれば、レコードが売れましたし、逆に、大物アーティストであっても、ディスコサウンドを取り入れなければヒットは望めない、というようなちょっと異常な状態だったんです。

魅力があるから人が集まり、ブームとなっていくわけですが、やがてそれに便乗するだけの、玉石混交の “石” のほうが増えてしまって、人が離れ、ブームが終わっていきます。すると今度は反動みたいなことが起きて、そのカテゴリーのものが急に色褪せて見えたり、時にはそれらを批判する声が高まったりします。ブームが大きいほどその反動も大きいようで、ディスコブーム衰退期の米国では、「anti-disco backlash」と呼ばれた現象が起き、野球場にディスコのレコードを集めて爆破するというようなことまで行われました。

ディスコで終わらなかった “Chic” の2人

ディスコナンバーでにわかに売り出した新人アーティストたちも、そのほとんどは、ブームの終焉とともに表舞台から消えてしまったのですが、 "Chic" は違いました。1977年に結成され、「Le Freak」(1978)や「Good Times」(1979)などが大ヒット。ディスコブームの中心にいました。抜きん出ていたのは、そのメンバーで、ギタリストのナイル・ロジャース(Nille Rodgers)とベーシストのバーナード・エドワーズ(Bernard Edwards)のプロデュース能力でした。Chic自身のプロダクツはもちろん、早くも1979年には、"Sister Sledge" のアルバム『We Are Family』をプロデュースし、「He's the Greatest Dancer」と「We Are Family」という2曲を大ヒットさせます。

これは完全にディスコものでしたが、その後もダイアナ・ロス(Diana Ross)の『Diana』(1980)、デボラ・ハリー(Deborah Harry)の『Koo Koo』(1981)、デイヴィッド・ボウイ(David Bowie)の『Let’s Dance』(1983)、マドンナ(Mandonna)の『Like a Virgin』(1984)、"Duran Duran"の『Notorious』(1986)と、ポップ/ロックの領域でも、ロジャース&エドワーズ、あるいはロジャース単独のプロデュース作品が、売上と評価の両面で、次々と大成功を収めていくことは、周知のとおりです。

「Diana」のプロデュース

その『Diana』が今回のテーマです。ダイアナ・ロスのソロ11作目のアルバムで、ロジャースとエドワーズの共同プロデュース。ニューアルバムのための新たなサウンドを模索していた時、ロスはニューヨークの有名ディスコ店 “Studio 54” で、Chicの曲を聴いて「これだ!」と思い、彼らにアプローチしたそうです。 “Studio 54” と言えば、Chicの出世作「Le Freak」が生まれるきっかけとなった場所です。1977年の大晦日、そこに出演したグレース・ジョーンズ(Grace Jones)から招待を受けていたロジャースとエドワーズですが、ドアマンにちゃんと伝わっていなかったため、門前払いされました。しかも「Fuck off!」とののしられて。それを「Freak out!」と替えて歌にしたのが「Le Freak」だったんですね。その同じ店が今度はロスと彼らを結びつけたなんて、不思議な因縁ですね。

収録の8曲はすべて彼らの書き下ろし。いくつかの曲は打ち合わせでの彼女の言葉から生まれたそうです。「このアルバムで私の状況をひっくり返し(=upside down)て、もう一度楽しくしたいの(=have fun again)」。ソロになってからも売上は決して悪くはなかったけれど、出せばヒットだった “スプリームズ(The Supremes)” 時代と比べれば、なかなか思い通りにならないロスの本音だったのでしょうが、彼らはその言葉から「Upside Down」と「Have Fun (Again)」という曲をつくってしまいました。あるいはまた、あるクラブでロスのような格好をしたドラァグクイーンたちに出会ったことで、「I'm Coming Out」という曲をつくるなど、実に飄々と、楽しみながら制作に勤しんだようです。

1980年ならではのいざこざ

ところがなんと、完成したアルバムにロスは不満だった… というより、それを聴いた某有力DJの言葉に動揺してしまいました。1980年、ちょうど前述の「anti-disco backlash」が吹き荒れている時期です。そのDJは「このままの形でリリースしたら、歌手生命が終わるかもしれませんよ」と警告したのです。

ロスは歌を録り直し、ミックスダウンをやり直します。楽器の音数を減らし、ボーカルをしっかり大きめに出して、いくつかの曲ではテンポも少し上げました。 “ディスコっぽさ” を薄めようとしたんだと思いますが、それをロジャースたちに相談すればいいのに、モータウン(所属レーベル)のエンジニア、ラス・テラーナ(Russ Terrana)と2人で、勝手にやってしまったのです。

あとでそれを知ったロジャース&エドワーズは当然怒り、それで出すならレコードから彼らの名前を一切消してくれ、と抗議しましたが、モータウンとロスは譲らず、結局、クレジットはそのままに、やり直した音源で発売しました。でも結果は、総売上枚数約1000万枚という、ダイアナ・ロスのスタジオ盤アルバムの中で最大のヒット作となり、そこはめでたしめでたし。

で、2003年に発売されたCDに、オリジナルミックス音源も収録されたので、聴き比べてみると、さほど違ってはいません。元はディスコっぽくて最終盤はそうではないなんてこともなくて、ともに、ディスコのテイストはあるけど、R&Bとしても楽しめるって感じです。「元のままだと歌手生命が終わる」なんてことはきっとなかったと思うのですが…。ただ、最終盤のほうがボーカルが力強くて、全体的にすっきりした印象があります。やり直したのはムダではなかったと思うし、彼らもたぶんそこには異論なかったんじゃないかな。要するに、ロスが素直に相談して進めれば、たぶん、揉めることはなかったんですよ。

ディスコブームの終焉という “時代の節目” であった1980年ならではの話ですね。

カタリベ: ふくおかとも彦

アナタにおすすめのコラムダイアナ・ロスとシックのガチンコ対決、勝ったのはどっち?

▶ ダイアナ・ロスのコラム一覧はこちら!

80年代の音楽エンターテインメントにまつわるオリジナルコラムを毎日配信! 誰もが無料で参加できるウェブサイト ▶Re:minder はこちらです!

© Reminder LLC