「世界の王」から新記録の三振を取るため「もう1周回そう」・江夏豊さん プロ野球のレジェンド「名球会」連続インタビュー(25)

インタビューに答える江夏豊さん=2023年4月、東京都目黒区で撮影

 プロ野球のレジェンドに現役時代や、その後の活動を語ってもらう連続インタビュー「名球会よもやま話」。第25回は江夏豊さん。投手生活の前半は先発、後半は抑えで活躍し、通算206勝193セーブ、2987奪三振。とてつもない記録を残した名左腕はマウンド上で頭脳をフル回転させていました。(共同通信=中西利夫)

 ▽リリーフは打者を1球で打ち取るのが理想

 基本的に僕は投げることが好き。マウンドに上がるのが好き。心臓が良くない時、肩や肘が良くない時、痛風の時でも「おい、行ってくれ」と言われたら、どんな状況、状態であってもマウンドに上がりました。18年間を振り返ってみて、降板させられたことは何度もあったけど、マウンドに上がるのを嫌がったことは一度もない。それだけは自分のピッチャーとしての唯一の誇り。それぐらい投げることが好きやった。先発の時は81球が自分の理想でした。打者27人を3球ずつで終わらせる。リリーフになれば、反対に1球で終わらせる。1球で終わるというのは裏をかくのではなしに、相手を読むということ。バットを振らせないといかんから、相手が読んでいるところの近くに投げていくというのが理想でした。

1967年に阪神入りした当時の江夏豊さん。新人ながら12勝を挙げ、シーズン最多の225奪三振をマークした

 監督でいえば目配り気配り。ピッチャーだってマウンドに上がったらグラウンドのにおい、その時の状況、野手の動き、相手打者やチームの動き、全てを読むというのが最低限の仕事です。すごく難しそうに聞こえるけど、別に難しくとも何ともない。できる量は多少の差はあっても、みんな考えてやってます。風向き、相手のメンバー、残りの控えの選手とか全部計算してます。
 バッターは三振だけはしたくないというのが本音ですよね。ホームランを打ちたい。でも三振だけはしたくない。そういう気持ちで打席に入ってくるわけです。そういうバッターから三振を取るというのは最高の快感ですよね。三振でも見逃しと空振りの二通りありますけど、力のあるうちは、やっぱり空振りに打ち取りたい。目つぶって投げても空振り。江川卓がそう。ここは真っすぐしかないという場面で、真っすぐを放って空振り。だから怪物と言われる。あれが最高のピッチャーの魅力ですよね。まあ、晩年のように球に力がなくなって裏をかくという時には見逃しという部分に魅力を感じました。

 ▽「田淵、早く座ってくれ」

 1968年9月17日、巨人との4連戦の第1戦、僕と高橋一三さんが投げ合いました。シーズン最多奪三振記録まで残り八つでした。一回に2個、二回2個、三回に2個、四回も王貞治さんで2個目の三振を取って「よしやった」と、るんるん気分でベンチに返ったんです。そしたらキャッチャーの辻恭彦さんから「おい、ユタカ、まだタイ記録やで」って言われて。よく考えたら新記録じゃないんですよね。試合は四回で0―0。相手の一三さんも良かった。これは1、2点の勝負やなというぐらいのゲーム。打たれたくないし、1点取られたくない。でも(新記録の三振は王から奪いたくて、他の打者を)三振させたら駄目だということで、どうしたらええか。1周回そうと考え、五、六回と三振を取らなくて、七回に王さんが出てきて、やっと全力投球で九つ目を取った。今から考えると、よくできたなと思います。あの時の雰囲気というのは両軍ベンチもファンも、みんな(三振の記録を)分かっていました。打席に入ってきた王さんも分かっていたと思います。バッターにしてみれば、そういう記録に名前なんて残したくないですよ。でも、王さんは当てにきたんじゃなしに、スタンドに放り込もうというぐらいのスイングをしてくれた。僕に最高の敬意を払ってくれた。改めて王さんの素晴らしさを教えられました。

1968年9月の巨人戦で、江夏豊さんは王貞治さんから当時のプロ野球新記録となるシーズン354個目の三振を奪った=甲子園

 (71年の)オールスター戦の9者連続三振では数万人のお客さんが一瞬息をのみ、静まり返りました。あの雰囲気というのは何か怖いものを感じますよね。マウンド上にいて、本当に皆の目が自分に来ているのは、ありありと分かるわけです。だから、緊張感から早く逃れたいという意識がありました。9人目の加藤秀司がファウルを打った時、捕手の田淵幸一に「追うな」と言いました。追ったところでスタンドに入るファウルです。もう早く座ってくれと、早く解放されたいという気持ちから「追うな」と言ったのを、マスコミが勝手に「捕るな」に換えました。
 実際に三振を取った時には、ほっとしました。あの時、8人取った後、パ・リーグのベンチに野村克也さん、張本勲さんが残っていて、どっちか出てくるなと思っていました。それが加藤。同い年で高校時代から対戦しています。あの頃は振り回すだけの荒っぽいバッターですから、もう自分では99・9%取れるという確信がありました。だから「田淵、早く座ってくれ」なんです。

1971年7月のオールスター第1戦で、9連続三振を達成した江夏豊さん=西宮

 ▽抑え投手にとって剛速球や鋭い変化球より大事なもの

 76年に南海へ行って6勝しかできなくて、野村監督も何とか江夏を再生する、球数にして40、50球なら放れるという部分を考えてくれたのがリリーフ。当時は(パ・リーグが)前期・後期制やDH制で、どんどん野球が変わってきていてた時代です。野村監督は、これからの強いチームには抑えが絶対必要だと、ずっと考えていたらしいんですよ。「江夏、おまえは先発で長いイニングは無理なんだから、やってみないか」と。ピッチャーは先発完投してなんぼ、勝ち星が全ての時代です。リリーフは俗に言う落ちこぼれ、先発できないピッチャーがするものだという感覚でいました。当時はリリーフなんかで飯が食える時代じゃなかったです。やっぱり心のどこかで先発したいと、勝ち星に執着心を持っているところがあり、なかなか素直に受け入れられませんでした。

南海に移籍して2年目の江夏豊さん。シーズン途中に抑え投手に転向した

 最終的にOKしたのは77年6月。「野球界に革命」と言われ、男として革命という言葉は魅力があるじゃないですか。革命って何ですかと監督に聞くと「DHとか考えてごらん。走れない、守れない選手なんて今まで要らなかった。打つだけの選手は使えなかった。でも今は十分戦力になる。これからの時代には絶対必要だから、リリーフを頼む」と言われて引き受けました。
 リリーフの心理というのは、半分はカッカと燃えてますよ。抑えてやろうと、やっぱり精神的に負けたくないと。僕らがマウンドに上がるのはチームが勝っているから。でも、局面は苦しい場面ばかり。だから半分は燃えながら、でも、どこかに冷めた部分を常に持っておかないと冷静に見えない。投げる時は左目でミットを見て、右目でバッターを見る。燃えてるだけでは見えないんですよ、冷めてる部分がなげれば。それを勉強する。それがリリーフなんです。速い球が投げられる、落ちる球が放れる、三振が取れる、これも大事なことだけど、リリーフでもっと大事なのは、その場面を冷静に対処できることです。

1979年11月の日本シリーズ第7戦、九回1死満塁のピンチで江夏豊さんは投球をウエストして近鉄のスクイズを失敗させた。「江夏の21球」の名シーン=大阪

 先発の時には自分の理想のピッチングを求めるから、その中に失敗もあり、失点もある。リリーフの場合は、それは許されない。絶対にチームが逃げ切る。これが最低条件です。リリーフピッチャーの面白さはランナーを置いての配球。最高に難しくて面白い。1点差なら1点もやらない。2点差なら1点やってもいい。その代わり2点目はやらない。3点差なら3点目をやらないためのピッチングを、その場その場でさっと組み立てる。1球目の入り方から、勝負球の持っていき方。これが抑え投手の最高の楽しみであり、喜びなんですよね。今のリリーフピッチャーはかわいそう。1イニング限定で、ランナーなしで上がっているから何の勉強にもならない。

1982年7月の近鉄戦で通算200勝をマーク、ファンにこたえる江夏豊さん=後楽園

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 江夏 豊氏(えなつ・ゆたか)大阪学院大高から第1次ドラフト1位で1967年に阪神入団。同年から6年連続の最多奪三振。68年はプロ野球記録のシーズン401奪三振。南海(現ソフトバンク)移籍2年目の77年から抑え投手に。広島で79、80年と連続日本一。81年は日本ハムでリーグ優勝。82年7月に名球会入り条件の200勝に到達。84年に西武移籍。85年春に米大リーグのキャンプに参加するも引退。通算206勝193セーブ。48年5月15日生まれの75歳。兵庫県出身。

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