【石川ひとみ 最新インタビュー】② デビューまでの道のりと「まちぶせ」の大ヒット!  デビュー45周年!石川ひとみインタビュー後篇です!

透明感のある伸びやかなボーカルと抜群の歌唱力でリスナーを魅了し続ける石川ひとみが7月19日にオリジナルアルバム『笑顔の花』をリリースした。デビュー45周年を記念した同アルバムではさまざまな作曲家とコラボして4曲の作詞を担当。これまでにないタイプの楽曲も歌いこなすなど、新たな魅力を訴求している。進化を止めない歌姫へのロングインタビュー。後篇はこれまでのキャリアと今後の活動に対する想いを訊く。

デビュー曲「右向け右」から今年で45周年

―― 1978年5月に「右向け右」でデビューしたひとみさんは今年45周年。同期でオリジナルアルバムのリリースやコンサートの開催を継続している方はほとんどおられません。まさに歌うために生まれてきた印象がありますが、歌は子供の頃からお好きだったのでしょうか。

石川ひとみ(以下、石川):はい、初めて自分のお小遣いで買ったレコードは「黒ネコのタンゴ」(1969年)だったんですけど、繰り返し聴いているうちに口ずさむようになって、それ以来、1日2時間はレコードを聴きながら歌うようになりました。クルマで家族旅行に出かけたときは、自分の歌を録音したカセットテープをカーステレオでかけてもらっていたので、両親や兄には迷惑だったかも(笑)。誰も「もう変えよう」とは言いませんでしたが。

―― やさしいご家族ですね!(笑)。音楽好きの家庭だったのでしょうか。

石川:母は芸事が好きで、民謡や詩吟、剣舞などをやっていました。そういえば「ひっちゃんもやってよ」って言われて、私も詩吟を歌わされたなぁ。母がお稽古で使った吟譜を見ながら「あ~~え~~~」って(笑)。

―― ひとみさんの発声が素晴らしいのは、詩吟で鍛えられたのかもしれませんね。

石川:どうでしょう(笑)。ただ私が高校1年のとき、東京音楽学院(当時は渡辺プロダクション傘下のタレント養成学校)の名古屋校に通い始めたのは母がきっかけとも言えるんです。2人で買い物に行ったとき、駅で見かけた文化センターの看板の片隅に “東京音楽学院” の文字があったのですが、その看板には民謡や詩吟のカリキュラムも書かれていたので、「お腹から声を出すのって健康にいいらしいから、一緒に行ってみない?」って。

―― お母様の興味を引きつつ、自分の目的を果たしたわけですね。ある意味、知能犯と言えそうです(笑)。それ以前、小学6年のときにはCBC(中部日本放送)ののど自慢番組に出演されています。

石川:『どんぐり音楽会』(1972年3月放送)ですね。そのときは南沙織さんの「潮風のメロディー」(1971年)を歌い、特別賞をいただきました。

「君こそスターだ!」で岩崎宏美を熱唱

―― その頃から「将来は歌手に」という夢を抱いていたのでしょうか。

石川:私は歌に目覚めて以来、天地真理さんが大好きで憧れていましたので、「なれたらいいなぁ」という想いはありました。中学に入ると『スター誕生!』(日本テレビ系)から、それほど年齢が変わらない方たちが続々とデビューするようになりましたから、さらに夢が膨らんで。

―― では、東京音楽学院は夢への第一歩だったわけですね。

石川:でも両親にはそう考えていることを言えなかったので、お月謝が上がったときに「歌手になるわけじゃないんだから、もうやめなさい」と。それで泣く泣くやめたのですが、高校2年のある日、渡辺プロダクションのオーディションが名古屋で開催されることを新聞で知るんですね。「せっかく東京音楽学院でレッスンを受けたのだから、もう1回チャレンジしたい」。そう思って親に言いましたら、「これが最後だよ」と認めてくれて。オーディションを受けに行ったら、なぜかフジテレビの方がそこにいらして、合格後に『君こそスターだ!』(フジテレビ系)への出演を勧められたんです。

―― 林寛子さんや高田みづえさんを送り出したオーディション番組ですね。

石川:ええ。7週勝ち抜くとグランドチャンピオンになるというシステムで、最初の週は岩崎宏美さんの「ドリーム」(1976年)を歌いました。歌詞を間違えて収録を止めるという、前代未聞のミスをしてしまったのですが、なぜか合格。確か1回につき2本ずつ収録していたと思うんですけど、その都度、母と一緒に上京して、7週目はやはり岩崎宏美さんの「想い出の樹の下で」(1977年)を歌いました。

―― 岩崎宏美さんもお好きだったのですね。

石川:そうなんです。私は歌い上げる曲が大好きで、宏美さんの歌はいつも気持ちよく歌わせていただいていて。レコードもデビュー曲の「二重唱(デュエット)」(1975年)以降、すべて持っていました。2週目から6週目まで、どんな曲を歌ったか忘れてしまったのですが、番組スタッフの方に「岩崎宏美さん以外に歌えるものはありますか」と言われた記憶があるので、ほとんど宏美さんの歌だったのかもしれません。

合格からデビューまで1年以上、その理由は?

―― 見事勝ち抜いたひとみさんは渡辺プロとNAVレコード(キャニオン系列のレーベル)の所属となります。『スタ誕』だとレコード会社やプロダクションのスカウトマンがプラカードを挙げますが、『君スタ』はどういう仕組みだったのでしょう。

石川:それがよく分からないんです(笑)。7週勝ち抜いたからと言ってデビューできる保証はなく、私の場合は知らないうちに決まっていた感じで……。渡辺プロダクションのオーディションでフジテレビの方に声を掛けられたので、事務所はその流れで決まったのかもしれませんね。

―― しかも合格からデビューまで1年以上、間があったとか。

石川:『君スタ』に出演したのは高2のときで、そこから卒業までは学生生活を送っていました。その間、名古屋の東京音楽学院には通っていましたけれども、事務所のなかでどういう扱いになっていたかは分かりません。上京したのは高校を卒業した3日後だったと思います。両親は芸能界入りに反対でしたが、有名な事務所で、しかも寮に入れるということで「4年間」という約束で認めてもらいました。大学に行く友達が多かったので、「4年間だけ、東京で社会勉強をさせてほしい」と説得したんです。

―― 卒業して入寮したのが3月上旬。デビュー曲「右向け右」が発売されたのは5月25日ですから、2ヶ月ほどでレコードが世に出たことになります。上京後すぐにレコーディングしないと間に合わないスケジュールですが、それだけの実力がすでに備わっていたということですよね。

石川:当時は言われるがままという感じで、正確な時期は憶えていないのですが、初めてのスタジオで、初めてヘッドフォンをしてマイクの前で歌った2曲がデビューシングルのAB面(「右向け右」と「ピピッと第六感」)になって驚きました。私自身は「こんなに素敵なところで、オリジナル曲を練習させてくださってありがたいわ」という気持ちだったんですけど、歌い終えてソファに座ったら、スタッフさんが「デビュー曲はどっちがいい?」とおっしゃって。どう答えたかは記憶にないのですが、もともと人見知りのうえ右も左も分からない状況でしたから、おそらく何も言えなかったんじゃないかしら。内心「これがデビュー曲なんだ!」「もっとちゃんと歌えばよかった!」って思っていたとしても(笑)。

―― まさに「右向け右」状態で歌った歌がそのままレコードになったと(笑)。ひとみさんの歌唱力を裏付けるエピソードです。

石川:練習だと思っていたから、のびのび歌えた可能性もありますけどね。いずれにしてもレコーディングではその後も自由に歌わせていただいて、「こうしなさい」と言われたことはあまりなかったように思います。

セカンドシングル「くるみ割り人形」で多くの新人賞を受賞

―― セカンドシングルの「くるみ割り人形」(1978年9月)はスマッシュヒットとなり、多くの新人賞を受賞しました。ストリングスやブラスを配したゴージャスなサウンドも聴きどころです。編曲は当時駆け出しだった大村雅朗さんで、初期楽曲の多くをアレンジしていますが、スタジオで顔を合わせることはありましたか。

石川:残念ながら当時は作家さんやアレンジャーさんにお目にかかる機会はほとんどありませんでした。できればオケ録りから立ち会って、作家さんともお話ししたかったんですけど、その時間がなかったように思います。

―― 音楽番組や、歌のコーナーがあるバラエティが毎日2〜3本放送されていた時代ですからね。アイドルと呼ばれた方は皆さん、深夜にレコーディングをしていたと聞きます。

石川:そうでした。いつも夜の9時とか10時に仕事が終わって、スタジオに入るのは11時過ぎ。いつだったか、夜中の2時に事務所やレコード会社の方が大勢いらして「こんな時間に!?」とびっくりしたこともあります。

「これが最後の曲なら悔いはない」と思った「まちぶせ」との出逢い

―― 1979年はヒロインの声と主題歌を担当した『プリンプリン物語』(NHK)がスタート。1980年からは『クイズ・ドレミファドン!』(フジテレビ系)の司会を務めるなど、多くの人気番組に出演していたひとみさんですが、トップテンヒットはデビュー4年目の「まちぶせ」(1981年4月)まで待たねばなりませんでした。

石川:ありがたいことにたくさんのレギュラー番組を持たせていただいて、忙しい毎日ではあったのですが、歌手としては自分が思い描いていた形になっていなくて。両親と約束した4年の期限が近づいてきて、「次のシングルで区切りをつけて、自分の人生を見つめ直そう」と考えていたときに出合ったのが「まちぶせ」でした。と言っても、最初の出逢いはその5年前。東京音楽学院のレッスンで課題曲になったときなんです。

―― 事務所の先輩にあたる三木聖子さんが歌っていた頃ですね。

石川:はい。そのとき「なんて素敵な曲だろう」と思って、帰りに三木さんのシングルを買いました。帰宅したらすぐに聴いて、ご飯も食べずに練習して。それくらいお気に入りの曲だったので、次のシングル候補だと聞いて「絶対に歌いたい」と思ったんです。詞の内容も、自分が学生時代に経験したことと重なって、とても共感できましたから「これが最後の曲なら悔いはない」と。

―― 以前、当時の担当ディレクターだった長岡和弘さんにお話を伺ったことがあります。それまで与えられた曲に対する意見を言わなかったひとみさんが初めて「この曲、大好きなんです。シングルになりませんか」と言ってきたので、その気持ちに応えたかったとおっしゃっていました。

石川:「次の曲で最後」ということは誰にも言っていませんでしたが、「ほかの曲になったら心残りができる」。そう思って言いに行ったのでしょうね。

―― 長岡さんは当初、B面の「懐かしきリフレイン」をA面に考えていたようですが、カバーに難色を示す事務所を説得して「まちぶせ」をA面にしたそうです。結果は大ヒット。オリコンでは初登場100位からじわじわ上昇し、最高6位のロングセラーとなりました。

石川:そう、最初が100位だったことは記憶にあります。そこから少しずつ上昇していったので、チャートを見るのが楽しみでしたね。そういう経験は初めてでしたから、信じられない気持ちもありました。

―― 「まちぶせ」のアレンジとピアノは松任谷正隆さんで、ドラムが林立夫さん、ベースは後藤次利さん、ギターが鈴木茂さん、パーカッションは浜口茂外也さんというすごいメンバーです。曲がヒットして感じた変化はありましたか?

石川:街を歩いているときに声を掛けられたり、小さいお子さんから「夕暮れのお姉ちゃん」って言われたり(笑)。イベントにも多くの方が来てくださるようになって、歌手として皆さんに知っていただけたことが嬉しかったです。

起死回生のヒットで紅白歌合戦への出場を果たす

―― 起死回生のヒットで紅白歌合戦への出場も果たしたひとみさんは、その後も気鋭のソングライターによる傑作を連発。1987年にご病気で休業するまで、シングル23作とアルバム8作をリリースしました。思い入れのある作品があればお聞かせいただきたいのですが。

石川:どの作品にも愛着があるので難しい質問ですが、あえて挙げるとすれば、アルバムなら『ジュ・テーム』(1982年)と『プライベート』(1983年)かなぁ。その2枚はお気に入りの曲が多くて、ライブでもよく歌っています。『ひとみ・・・』(1980年)は少女の1日を描いたB面の構成が乙女チックで好きなんですけど、曲間の私のナレーションがイマイチで……(笑)。

―― 当時のアイドルのアルバムでは割とよくある手法でした(笑)。

石川:シングルでは、もちろん「まちぶせ」は大切な曲。ファンの方たちの間で人気のある「君は輝いて天使にみえた」(1982年5月)と「にわか雨」(1983年6月)は私も大好きでライブの定番曲になっています。シングル曲以外では玉置浩二さんが作曲をされた「置き忘れたメモリー」(『プライベート』収録)もお気に入りですね。玉置さんには何曲か書いていただいていて、レコーディングにも立ち会ってくださったのですが、数年前にお会いしたら当時のことを憶えていらして嬉しかったです。たまたま私が好物のリンゴを剥いてスタジオに持ち込んでいたときだったので、美味しそうに召し上がる姿が焼き付いています(笑)。

―― 1993年に音楽プロデューサーの山田直毅さんと結婚されてからは、山田さんが作曲・プロデュースを手がけるアルバムを発表していきます。前回お話を伺った『HOME・MADE-ただいま-』(1999年)と『一五一会』シリーズ(2004~2007年)、そして40周年のときに発表した『わたしの毎日』(2018年)と今回の『笑顔の花』と続きます

石川:病気のときは悲しい想いをしましたが、人のやさしい気持ちの尊さとか、気付いたこともいっぱいあって、それが今の音楽活動に繋がっています。主人との絆が深まったのも病気で休んでいたときですし、今は見ている方向が同じ人が横にいることがとても心強くて、ありがたいなと感じています。

―― 2015年からは浅草のアミューズ カフェ シアターで過去のオリジナル曲を中心としたライブ活動も始められました。

石川:それまでのライブはシングル曲と『HOME・MADE-ただいま-』の曲、あとはカバー曲が中心でアルバムの曲はほとんど歌っていなかったんですね。でもアミューズ カフェ シアターの存在を知ったとき、「今まで歌ってこなかった曲をもう一度見直して、生の演奏でお届けしたい」と思ったんです。カフェレストランでお酒の匂いがしないし、ゆっくり歌を聴いていただけるスペースだったので、そういうところだったら歌いやすいかなって。

―― ひとみさんはお酒を召し上がらないんですよね?

石川:そうなんです。私のレパートリーも青空の下を舞台にしたような歌が多いですから、「これはチャンスだ」と思って定期的に開催するようになりました。お客様との距離がすごく近いので、毎回心臓バクバクで歌っていたんですけど、おかげで鍛えられた部分もあります。ファンの方からもご好評いただいて、もう少し回数を増やそうかと考えていたのですが、そこからコロナ禍になってしまって。残念ながらそのシアターも閉店してしまったんですけど、このときの経験が40周年(2018年)以降の活動に繋がりました。

45周年記念コンサートで笑顔の花を咲かせたい

―― オリジナルアルバムの制作に、ホールでのコンサートなど、以前にも増して精力的な音楽活動を展開されているのはそういう流れがあったんですね。そして45周年を迎えたわけですが、今後の夢や目標があれば最後にお聞かせいただけますでしょうか。

石川:ここまで来ると大きな夢とかよりも元気でいることがいちばん(笑)。喉や体、心の健康をキープしていい歌をお届けしたいと思っています。もしつらいことがあっても、そこに楽しみを見つけるというか、ポジティブな考え方に変えていきたいですね。その方が心の健康にいいと思いますから。

―― そうすれば笑顔の花が咲きますよね!

石川:そうです!(笑)。まずは10月1日の45周年記念コンサート(新橋ニッショーホール)で笑顔の花を咲かせたいと思っていますので、多くの皆さんとお会いできることを楽しみにしています。

カタリベ: 濱口英樹

アナタにおすすめのコラム【石川ひとみ 最新インタビュー】① デビュー45周年アルバム「笑顔の花」に込めた想い

▶ 石川ひとみのコラム一覧はこちら!

80年代の音楽エンターテインメントにまつわるオリジナルコラムを毎日配信! 誰もが無料で参加できるウェブサイト ▶Re:minder はこちらです!

© Reminder LLC