「放射能は訳のわからない怪物のよう」核の悲劇を後世に残そうと学ぶ若者たち【戦後78年「つなぐ、つながる」①】

戦後78年「つなぐ、つながる」、10日は「はだしのゲン」とともに広島市の平和教材から削除されることになった焼津の第五福竜丸についてです。

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アメリカの水爆実験で第五福竜丸が被ばくした事件から70年近くが経ち、当事者が年々減る中、核の悲劇を後世に残そうと学ぶ若者たちがいます。

8月9日、78回目の「原爆の日」を迎えた長崎。静岡県立清水東高校の2年生、東井上遥華さん17歳。彼女は長崎市生まれの「被爆3世」です。

東井上さんは、静岡雙葉高校1年中野愛子さん(15)、不二聖心女子学院高校2年渡邊楓花さん(16)とともに、静岡県代表として戦争や核兵器について学び、8月、長崎市で行われた平和を願う行事「原水爆禁止世界大会」に参加しました。

<東井上遥華さん>
「左側が祖母で、右側が祖父です」

東井上さんのおばあさんは、お腹の中にいる時に被爆。おじいさんは、幼少期に被爆しました。

<東井上遥華さん>
「小学校高学年のとき、祖父母が原爆資料館に連れていってくれた。そのときに見たものに幼いながら衝撃を受けたものがいくつもあって。肌がすごく焼けてしまったり、家族が全員亡くなって幼い子がひとり途方に暮れている様子だとか」

東井上さんは、自分のルーツを知り、核兵器の恐ろしさと向き合うようになりました。

焼津市浜当目の弘徳院にあるビキニ事件の犠牲者、久保山愛吉さんの墓です。

1954年3月、アメリカが太平洋のビキニ環礁で行った水爆実験は、無関係の多くの漁船を巻き込みました。焼津港所属のマグロ漁船、第五福竜丸の乗組員23人は放射性降下物「死の灰」を浴び、久保山愛吉さん(享年40)は被ばくから約半年後に放射能症で亡くなりました。

ビキニ事件から69年が経ち、ほとんどの乗組員が亡くなりました。2021年亡くなった元乗組員大石又七さん(享年87)。700回以上の講演を行い、核兵器の恐ろしさを伝え続けてきました。

<第五福竜丸 元乗組員 大石又七さん(当時79)>
「がんになったり、子どもが不幸な形に生まれたりと非常に悲しい経験をしましたけど、黙っていたのでは、またきっと同じような被ばく者・被害者が出るだろうと」

この春、議論を呼んだ決定がありました。

被爆地・広島市の教育委員会は、平和教育の教材から漫画「はだしのゲン」と共に、第五福竜丸の記述を削除すると決めたのです。亡くなった大石又七さんの義理の妹でビキニ事件についての講演を行っている河村恵子さんは憤りをあらわにしました。

<大石又七さんの義妹 河村恵子さん(76)>
「ものすごい絶望感というか、がっかり感。ありえないことで、すごく衝撃的でした」

東井上さんたちは7月30日、河村さんから直接話を聞きました。

<大石又七さんの義妹 河村恵子さん(76)>
「(大石さんたちが)久保山さんと東京で入院しているとき、久保山さんが半年くらいたって亡くなったときに、高熱が出たそうです。何日も。脂汗を流して、わけのわからないことを大声で叫んでいた。そのような状態で亡くなったんだそうです。自分たちもいつかあのように死ぬのだなと、目の前で見て恐怖に震えたと言っていました」

8月2日、東京都内にある第五福竜丸展示館で保管されている第五福竜丸の前に立った東井上さんは。

<静岡県代表として長崎に派遣 東井上遥華さん>
「私の次の代、私の子どもやその孫まで事実を伝え続けることはとても大切だと思うので、そういうことをしながら、ビキニ事件で終止符を打っていきたい」

生前の大石又七さんは、核についてこう語っていました。

<第五福竜丸 元乗組員 大石又七さん(当時79)>
「(放射能は)訳のわからない怪物のようなものでしたね。核は人間とは相容れないものだということは、はっきりしている。安心して暮らせるような世の中の方向に向かってほしいなと、私は被ばく者として切に感じています」

ビキニ事件から間もなく70年。悲惨な経験をした人たちの「記憶のバトン」を受け取り、次の世代につないでいくことが戦争を遠ざけるための手段です。

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