「映画を見て…ああやって、埋葬したんだ」『ラーゲリ』で命を落とした“顔知らぬ父”の無念【戦後78年「つなぐ、つながる」②】

映画『ラーゲリより愛をこめて』の公開をきっかけに、あらためてその過酷さが知られることになった「シベリア抑留」。静岡県沼津市出身のある男性は抑留の末、シベリアの地で亡くなりました。その男性の息子は父親について、ほとんど何も知らずに過ごしてきましたが、戦後78年を経て突然、父の無念に触れることになります。

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沼津市を見下ろす香貫山。その中腹の公園にある「慰霊平和塔」には戦没者の位牌3,384柱がまつられています。その一つ、岡本幹夫さん。沼津市の遺族会の会長を務める岡本忠さん(79)の父親です。

<岡本忠さん(79)>
「これが父です。戦争に行っていた時の父で(戦争に)行く前の父です」
Q.お父さんの姿がわかるのは
「この肖像画とこれだけです」

父・幹夫さんが出征した後に生まれた岡本さん。父を知る手掛かりは、出征前の写真と戦死した後に描かれた肖像画。そして、その死を見届けたという仲間が残していった言葉だけでした。

<岡本忠さん(79)>
「ロシアに抑留された人が引き上げてきた時に、私の家に寄って、『こういう訳で亡くなりました』と伝えて帰ったんですよね」

終戦後に日本軍の兵士や民間人が当時のソ連によって、労働力として連行されたシベリア抑留。気温はマイナス40℃、食料も満足にないなど、劣悪な環境のもとで森林伐採や鉄道建設などの過酷な強制労働が課せられ、5万5,000人が帰国を夢見ながら、命を落としました。

岡本幹夫さんも、そのひとりです。戦後の苦しい時期を祖母に育てられた岡本さんは父・幹夫さんが出征前に務めていた国鉄に就職。その背中を追いながらも父についてほとんど知らないまま、過ごしてきました。父の死と向き合うきっかけは、14年前、突然、やってきます。

<岡本忠さん(79)>
「厚生(労働)省から直接連絡がありまして。『お父さんはこういうところで亡くなりましたから』って、初めての話だったんですよ」

収容所に連れていかれた父は、肺を患い、闘病の末、亡くなっていたことを初めて知りました。2009年、岡本さんは、遺骨が眠っていた場所に線香をあげることができました。しかし、父が過ごした場所はすっかり変わってしまい、どんな最期を迎えたか、までは分かりませんでした。

2023年2月、岡本さんはずっと知りたかった“最期の思い”に映画の中で突然、出会います。2022年12月に公開された映画『ラーゲリより愛を込めて』。ラーゲリ=収容所でのあまりにも残酷な日々に誰もが絶望する状況で生きる事への希望を捨てず、日本への帰国と家族との再会を夢見続けた実在した人物の物語です。

<岡本忠さん(79)>
「父親と照らし合わせて映画を見た。ああやって、埋葬したんだ。帰ってくる時にはみんな仲間のことを伝えてくんだな」

岡本さんが訪れたのは「平和祈念展示資料館」。シベリア抑留に関する記録や体験者の証言に基づいて、再現された展示が並びます。防寒具なのに半そでというコートがありました。

<岡本忠さん(79)>
「半袖か…」

<学芸員>
「お腹が空きすぎて、ソ連の現地の労働者が持っていたパンと(コートの袖を)交換してしまったという体験」

<岡本忠さん(79)>
「それだけお腹が空いていたんだよな。やっぱし人間、空腹には敵わなかった」

岡本さんがここを訪れた目的はこの名簿です。名簿には、シベリアの地で亡くなった4万人近くの名前が記されています。

<岡本忠さん(79)>
「ありました」
「オカモト…」

<平和祈念展示資料館 川口麻里絵学芸員>
「最初の1年は寒波で…」

そこにあったのは、カタカナで書かれた父の名前。岡本さんは長い時間、見入っていました。会ったことのない父ですが、どんな思いで亡くなっていったのか。いまなら想像できるといいます。

<岡本忠さん(79)>
「私が父のことを思うのと同じで、父も子どもの顔を見ていないし、早く帰って、妻や子供。母親の顔を見たかっただろうなって思うのが常だと思いますよね」

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