《連載:想いを紡ぐ 戦後78年》(4) 生き残った特攻隊員 川野邦さん(96) 茨城・常陸大宮 友の激励、刻むノート #戦争の記憶

予科練の仲間のメッセージが書かれたノートを手にする川野邦さん=常陸大宮市鷲子

■予科練生、仲間は戦死

「神風よ吹け」「必中 俺ヲ忘ルナ」。長い年月で色あせた一枚一枚に、力強い筆致の言葉が並ぶ。表題は「戦友ノ叫ビ」。特攻隊員を命じられた川野邦さん(96)=茨城県常陸大宮市=は、同期たちから贈られた激励文を集めた1冊のノートを、今も大切に保管している。

旧美和村の出身。栃木県立烏山中の卒業前、海軍飛行予科練習生(予科練)を志願した。当時は「農家の手伝いばかり。勉強どころじゃなかったね」。1944年4月、17歳で甲種第14期生として土浦海軍航空隊に入隊すると、周りには、同世代の若者が全国から集まっていた。

■「負け戦」を意識

1年間の基礎訓練は苦しみの連続。失敗すれば棒でたたかれ、移動は全て駆け足だった。戦況悪化もあってか、飛行機の操縦訓練はなく、教官からは「お前たちは鉄砲の玉だ」と教え込まれる毎日を過ごした。

予科練卒業を1週間後に控えた45年春、特攻隊への参加が正式に決まった。向かうのは激戦地の沖縄。「はい、と言うほかない」。断る選択はなかった。

ノートには、同期たち36人が「祈成功 必ず後から行くぞ」と、特攻を勇気づける激励の言葉を寄せてくれた。

出撃を控えて長崎県へ移ると、爆薬を積んだ小型艇「震洋」の操縦訓練が待っていた。練習艇は木製ボート。既に飛行機を造る資材が不足しており、「この戦は負けだ」。そう感じたが、口に出すことははばかられた。

沖縄では同年3月から米英軍が上陸作戦を展開し、沖縄本島の戦況は壊滅的な状態。そのため出撃命令が出ないまま、1カ月後には福島県小名浜町(現いわき市小名浜)への移動を命じられた。関西地方を移動中の列車窓から見えた街並みは真っ黒な焼け野原。苛烈さを増す米軍の空襲に、戦況がますます悪化するのを肌で感じた。

■兄はシベリアに

小名浜では米軍の上陸阻止に向け、夜間に大津町(現茨城県北茨城市)へボートで向かう訓練も行った。

ちょうどその頃、土浦海軍航空隊が空爆され、練習生182人が戦死。中には、自身の特攻を激励してくれた戦友もいた。「特攻隊に選ばれた自分が生き残って、土浦に残った人たちは死んでしまった。どこでどうなるか分からない」。若くして散った戦友の顔は、今も脳裏に焼き付いている。

終戦を告げる玉音放送は小名浜の部隊基地で聞いた。隊員の中には勝利宣言と勘違いする人もいた。茫然(ぼうぜん)自失の中、除隊命令を受けて故郷へ戻った。出征した兄弟5人のうち4人は生還したが、長兄はソ連軍侵攻でシベリアに抑留され、捕虜生活中に亡くなった。

特攻隊員になれば命がないと知りながらも従い、生き残った。「強がり、張り切っていたけど、本当は嫌だった。戦争は二度とやりたくない」。そう語り、静かにノートを見つめた。

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