《戦後78年》「悲惨な戦い忘れない」 ミャンマー慰霊の旅回想 茨城・鹿嶋の加藤さん #戦争の記憶

約20年前の慰霊の旅を振り返る加藤新二さん=鹿嶋市粟生

日本から遠く離れたミャンマーに、現地で戦死した茨城県鹿嶋市出身の元陸軍伍長、加藤安氏さんの慰霊碑がある。甥の加藤新二さん(62)=同市粟生=が「伯父が亡くなった地の土を祖父のお墓に入れてあげたい」との思いから、慰霊の旅に出て約20年前に建立した。新二さんは「悲惨な戦いがあったことを忘れないで。戦争は二度と起こしてはならない」と力を込める。

新二さんによると、地元の農協に勤めていた安氏さんは、志願兵として1943年4月8日、栃木県宇都宮市で陸軍に入営し、同7月16日に出征した。所属は「南方方面軍第15軍33師団弓隊」。ビルマ(現ミャンマー)到着の知らせを最後に連絡が途絶え、公報で44年6月26日に戦死したことが確定した。その後、祖父茂正さんの調査で、安氏さんが肩の負傷によりシッタン村で部隊から離れたことなどが分かった。

慰霊の旅は、茂正さんの没後に見つけた日記帳で、息子である安氏さんへの思いをつづった文章を目にしたことがきっかけだった。気骨ある人と思っていた祖父が息子の戦死による悲しみや、やりきれなさを抱えて生きていたことを知った。

新二さんは現地の下調べを行い、反政府ゲリラが出没する地域に入るための交渉などに奔走。当時、一般旅行者が訪問許可を得るのは難しかったが、2001年3月にミャンマー軍兵士十数人が同行するなどの条件付きでシッタン村への旅が実現した。

飛行機や車、小型船を乗り継ぎ、数日の野宿を経て到着。現地では村長や多くの村民に歓迎された。恐る恐る当時の日本軍のことを尋ねると、「日本兵見たよ」「車座になってお酒を飲んだ」などと話してくれた。一方で、村近くの街道に日本兵の死体が積み重なっていたことなど当時の惨状も聞いた。

この旅で、村の寺に安氏さんの小さな墓石を安置するとともに、現地の土を持ち帰り祖父母の墓に入れるという念願がかなった。

旧首都ヤンゴンの日本兵墓地に高さ3メートルの慰霊碑を建てたのは、その翌年だ。碑には「チンドウィン河シッタン村にて戦死。昭和十九年六月二十三日 享年二十三歳」と記した。

新二さんは「祖父は生前、慰霊の旅に行きたがっていた。訪問することができ、祖父の気持ちも少しは安らいだのではないか」と話した。

© 株式会社茨城新聞社