小銃乱射「70~80人亡くなった」満鉄少年社員だった京都の男性、決死の逃避行 #戦争の記憶

満州での戦争体験を語る安達さん(京都府舞鶴市森本町)

 防寒帽をかぶって整列する少年たちの集合写真。中国・大連市旅順で1944年12月に撮影された。南満州鉄道株式会社(満鉄)の鉄道錬修所が行った修学旅行の一幕で、写真に写る京都府舞鶴市森本町の安達栄二さん(94)が保管している。大連市は04年の日露戦争の激戦地だった。

 満鉄は日本のかいらい国家として建国された旧満州国(中国東北部)で、鉄道や炭鉱などの経営を担った。京丹後市弥栄町出身の安達さんは14歳だった44年4月に入社し、吉林市にあった鉄道錬修所で1年間、職業や軍事の訓練を受けた。旧ソ連との国境に近い佳木斯(チャムス)駅に配属され、駅で切符を売る仕事についた。

 危機は突然、訪れた。45年8月9日。「真っ黒い大きな飛行機が飛んできた。日本は負けるので投降しなさいと書かれたビラが落ちてきた」。旧ソ連が日ソ不可侵条約を破り、満州に侵攻した。12日から安達さんの逃避行が始まった。少年社員と女性社員、病人ら計約40人が貨車に乗り、南を目指した。その途中、「みんなの命が危ないから放置してこい」という上司の命令を受け、ほかの少年社員と一緒に重病人の男性を川に運んで置き去りにすることもあった。

 終戦は旧満州国内の綏化(スイカ)駅で迎えた。ソ連兵や現地の人たちがやって来て日本人の所持品を奪った。乱暴されるのを避けるため、貨車の中で一緒にいた女性は鍋のすすを顔に塗って男装した。

 近くに「開拓団」を載せた貨車が止まっていた。乗っていた日本人たちが抗議のため物をたたいて音を出し、ソ連兵の怒りを買う。貨車から逃げ出したが、ソ連兵は自動小銃を乱射した。「怖かった。子どもたちもたくさんいたと思う。ひどいもんで70~80人は亡くなった」。別の駅では捕虜となった大勢の日本兵を乗せた列車とすれ違った。「後で考えるとシベリアに抑留された人たちだったんだろう」

 45年10月から撫順市の炭鉱で坑道の掘削作業をさせられ、46年6月に帰国のために引き揚げ港の葫蘆島(ころとう)に移動。船を待つ間に寝泊まりしていた場所の近くには、日本人とみられる多数の死体が濠(ごう)に埋められていた。

 同月下旬、広島市宇品港に上陸。戦後は国鉄に就職して東舞鶴駅で長年勤務した。舞鶴市に引き揚げ者を迎えにきた家族へ切符を売る業務に追われたと懐かしむ。

 「人間が殺し合う状況はあってはならんことです」と戦争のない世界を願う安達さん。ロシアのウクライナ侵攻に触れ「今は平和という言葉が通用しない時代になってきている。戦争の経験を話しても若い人たちに真摯(しんし)に受け止めてもらえるだろうか」と憂う。

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 戦後78年がたち、戦争を伝える資料や戦没者の遺品の保存、伝承が難しくなっている。高齢化で失われつつある記録と記憶。府北部で大切に保管されている「モノ」を通じ、平和の尊さを考える。

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