《連載:想いを紡ぐ 戦後78年》(5) 予科練入隊を覚悟した 岩松栄さん(90) 茨城・土浦 身近に戦争、死の恐怖 #戦争の記憶

霞ケ浦周辺の飛行機訓練や空襲の様子を語る岩松栄さん=土浦市手野町

■霞ケ浦湖畔に米機襲来

霞ケ浦湖畔に住む岩松栄さん(90)=茨城県土浦市=は、予科練の訓練や出征見送り、米軍機墜落、基地の空襲などを湖周辺で目の当たりにした。終戦を迎えたのは国民学校高等科1年(現在の中学1年)の時。多感な少年時代は常に戦争が身近にあった。

自宅から約5キロ離れた対岸にある現在の同県阿見町には、霞ケ浦海軍航空隊や土浦海軍航空隊があった。いずれも少年航空兵を養成する予科練の拠点だ。

練習機「赤とんぼ」が湖上で訓練する姿をよく眺めた。「高度が低いから、大きなエンジン音がよく聞こえた」

■ボートに釣り具

土浦の街中で、休日に風呂敷を抱えて歩く予科練生たち。「七つボタン」と呼ばれた制服姿に憧れを抱いた。「自分らも学校が終われば兵隊に行くのが決まっていたから」。友人たちと「海軍の方がいい」と語り合い、その時に向け、毎日のように湖で泳いだ。

集落では出征者の見送りがあった。午前6時ごろの花火が合図。日の丸と軍旗を掲げ、その下をくぐって行った。戦局が激しくなってからは神社で行われ、「勝ってくるぞと勇ましく-」。子どもたちは「露営の歌」で戦地へ向かう兵士たちを送り出した。

記憶に深く刻まれているのは米軍機の墜落。1945年2月16日、爆撃機SB2Cが対空砲に撃墜され、霞ケ浦沖に落ちた。舟に乗っていたうなぎ店主が米兵2人を引き上げ、岸に運んだ。

冬の寒さと強風もあってか、2人はガタガタと震えていた。外国人を初めて見た。中には「きこら(お前ら)のために苦労するんだ」と殴りかかる人もいたが、集まった住民は火をたいて暖を取らせ、2人の命を守った。

撃墜された米機の救命ボートには、遭難時に使う釣り道具も搭載されていた。「備えが違うと思った。日本は特攻で兵士の命を散らしていたのに。大きな違いだった」。日米の力の差は、そんなところにも現れていた。

■不気味な破裂音

第一海軍航空廠(しょう)を含め多数の軍事施設を抱える湖岸一帯は、米軍の空襲に狙われた。内陸へ向かったのか、頭のはるか上を西へ向かう爆撃機B29も見た。空襲警報が鳴り響くと、父親が庭に作った防空壕(ごう)へ避難。松の木の枠に土をかぶせた簡素なものだった。

45年6月10日、米軍は土浦海軍航空隊周辺に大規模空襲を展開した。

聞こえてくるのは不気味な破裂音。遠くに炎も上がっていた。「こちらに落とされたら大変」。死の恐怖に顔がこわばった。同町の記録では予科練生を含む374人が死亡。近所の友人の父親も亡くなったと聞いた。

「戦争はもうたくさん。やってほしくない」と願う。それでも世界では戦争が絶えない。ウクライナで戦争が続き、台湾や朝鮮半島の危機感も高まっている。「日本もまた戦争に巻き込まれ、不幸を生まないようにしてほしい」

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