アルゼンチン軍政下で消えた17人の日系人 左翼狩り名目に弾圧、苛酷な拷問も…40年後も続く苦悩

アルゼンチン・ブエノスアイレスで、日系失踪者の写真を入れた横断幕を持つ家族ら=3月(共同)

 南米アルゼンチンで軍事独裁政権が敷かれた1976~83年、左翼狩りを名目に活動家らへの弾圧が激化した。米国の支援を受けた軍による拉致や拷問が横行。ある日突然姿を消し、遺体すら発見されていない市民は数万人に上るとされ、中には日系人もいた。軍政の終結から今年で40年。失踪者の家族や拷問の経験者は「苦悩は終わらない」と語った。(共同通信サンパウロ支局 中川千歳)
 ▽就寝時に拉致
 1976年11月の深夜、何者かが首都ブエノスアイレス郊外の日系人家族、オオシロ家のベルを鳴らした。「けが人を連れてきた」の声。直前に訪れていた親族のことかと思いドアを開けると、数人の男が押し入り、眠っていたホルヘさん=当時(18)=を連れ去った。男達は私服に軍靴を履いていた。

 両親ら家族の目の前で起きた突然のできごと。姉のエルサさん(69)は「すぐに戻るだろうと考えていた」。だがそれが、家族がホルヘさんを見た最後となった。高校で左派系の学生運動に参加していたことが原因だった。エルサさんらは、ホルヘさんが軍の秘密拘禁施設にいたとの情報を2005年ごろに得て、民政移管後に政府や失踪者の家族、弾圧の被害者が起こした軍の罪を問う裁判に加わった。
 「家族は一時として気が休まったことはない。もう亡くなっていることは分かっているが、遺体を見つけて家族のお墓に入れてあげたい」。エルサさんは苦痛の面持ちで語った。

アルゼンチン・ブエノスアイレスで行方不明の弟ホルヘ・オオシロさんについて語るエルサさん=3月(共同)

 ▽日系社会の恥
 アルゼンチンでは1976年の軍事クーデターで世界初の女性大統領だったイサベル・ペロン大統領が解任され、軍事独裁政権が成立、左派活動家らが弾圧された。死者・失踪者は政府の調査で約1万人、人権団体によると約3万人とされる。
 現地日系人団体などによると、日本国籍保有者も含む日系失踪者は少なくとも17人いる。だが家族は声高に失踪を訴えることを長くためらってきた。アルゼンチンの日系社会は太平洋戦争後の移住者が多く、「受け入れてくれた」政権と問題を起こさないために「政治に首を突っ込むな」との風潮があったと関係者は語る。反体制分子として拘束されるのは日系社会の「恥」と捉える向きもあった。

行方不明になった日系人の名前を刻んだ敷石=3月、アルゼンチン・ブエノスアイレス(共同)

 失踪者の一人で当時29歳だった女性アメリアアナ・ヒガさんの父親もそうだった。いとこのグラシエラ・アラカキさん(73)によると、ヒガさんは労働者革命党員として社会正義を訴えていた。身の危険を感じて実家を出ていたが、1977年に拉致され軍の秘密拘禁施設に拘束された。
 アラカキさんは後に同じ施設にいたという女性から話を聞いた。ヒガさんは強姦などの激しい拷問を受けて衰弱していたという。女性はヒガさんのうめき苦しむ声が「今も頭にこびりついている」と話した。
 アラカキさんより3歳上だったヒガさんはいつも知的刺激を与えてくれる存在だった。だが沖縄県生まれのヒガさんの父は、娘の政治活動をよく思っていなかった。約10年前に亡くなる直前、やっと「娘は間違っていなかった」と考えを変え、アラカキさんに「娘を捜すのをやめないでくれ」と言い残した。

ブエノスアイレスで取材に応じるグラシエラ・アラカキさん=3月(共同)

 ▽37年後に見つかった遺骨
 17人のうち、後に遺骨が発見された失踪者が2人いる。そのうちの一人、フリオ・グシケンさん=当時(21)=は1978年に消息を絶った。弟の運動療法士ウゴさん(64)が、フリオさんの遺体が見つかったとの連絡を受けたのは2015年のことだった。

ブエノスアイレス郊外で取材に応じるウゴ・グシケンさん=3月(共同)

 軍政期の失踪者の捜索を支援するNPOが、過去に秘密拘禁施設があった場所の集団墓地から人骨の一部を発見、家族が登録していたフリオさんのDNAと一致したのだ。見つかったのは胸と膝の小さな骨片だった。「本当に奇跡だった」とウゴさんは振り返った。当時父は既に亡くなっていたが、存命だった母は「安堵したと思う」。
 軍政時の弾圧で拘束中に出産し、後に殺害された女性の子ども500人以上が軍関係者の養子になるなどしたが、DNA鑑定による実の親族探しが続いている。

秘密拘禁施設の一つだった海軍技術学校にある妊娠していた収容者の出産部屋。「どうやったらこんなところで子どもを産むことが可能だったのか?」と床に書かれている=3月、ブエノスアイレス(共同)

 ▽死の飛行
 軍による拉致から生還した日系人もいた。沖縄県にルーツを持つルベン・マキヤさん(67)は1977年3月、建築学を学んでいたブエノスアイレスの大学から出たところで軍に脚を銃撃され拉致された。マキヤさんは雑誌に寄稿した際の署名が過激派組織の略称と一致していたためメンバーだと疑われたと考えているが、本当の理由は分からない。

家族の写真を見せるルベン・マキヤさん=3月、ブエノスアイレス郊外(共同)

 首都郊外の秘密収容所を経て、空軍第7旅団基地の格納庫に大勢の学生らと共に拘束された。足を縛り逆さづりにされ、氷水の入ったドラム缶に沈められたほか、殴打や通電など苛酷な拷問を繰り返し受けた。夜になると軍人らは女性拘束者を人前で強姦した。

マキヤさんが一時拘束されていたブエノスアイレス郊外の施設跡=3月(共同)

 拘束者の多くが、重りを付けて飛行機から海に落とされる「死の飛行」の犠牲になった。マキヤさんもその一人になるところだったが、基地の隣でクリーニング店を営んでいた父が懇意の軍幹部に頼み、10月に救い出した。代償として店と土地を接収されて失った。
 マキヤさんは拷問の後遺症で障害を負う。だが軍政への怒りよりも「自分のせいで両親が全てを失い、亡くなった」との思いに今も苦しめられている。

マキヤさんが拘束されていたアルゼンチン空軍第7旅団基地=3月(共同)

 ▽日本政府の転換
 1983年の民主化後、アルゼンチン政府は失踪者らの調査委員会を立ち上げ、真実解明作業を行った。軍政を樹立したビデラ元大統領(2013年に死去)は終身刑の判決を受け、軍政幹部らの裁判も続いている。全土に約800の秘密拘禁施設があったことがこれまでに判明した。
 政府は「記憶・真実・正義」を三本柱に、軍政の教訓の継承や真実の追求、関係者の訴追を続ける。秘密拘禁施設を「国家テロ」の証拠だとし、多くを「記憶の場」として公開している。

秘密拘禁施設の一つだったブエノスアイレスの海軍技術学校。現在は記憶を伝える場として公開されている=3月(共同)

 一方で、1980年代後半には軍政の弾圧の加害者に対する免責や恩赦を認める法律が適用され、2000年代に無効化されるまで加害者の訴追が進まなかった。
 日系失踪者の家族たちは在アルゼンチン日本大使館にも被害を訴え、アルゼンチン政府に行方不明者の捜索を要求するなどの支援を求めた。家族によると、大使館の対応は長らく協力的ではなかったというが、粘り強く働きかけを続けるうちに転換が起きた。
 外交筋などによると、2001年、当時の小泉純一郎政権で初の女性外相に就任した田中真紀子氏が、訪日したアルゼンチンのジャバリニ外相との会談の冒頭で日系失踪者の件に言及した。真相解明と捜索、責任者の処罰について協力を求める家族の要請に沿ったものだった。以降、日本大使館は、失踪者の家族を「常に支援している」とエルサ・オオシロさんは言う。

秘密拘禁施設の一つだったブエノスアイレスの海軍技術学校。収容されていた失踪者の写真がガラス窓を覆っている=3月(共同)

 ▽次世代の闘い
 エルサさんは真実を知る軍関係者の訴追を加速してほしいと切望する。「失踪者の埋葬場所などの記録がまだ隠されている可能性がある。家族も加害者も(高齢で)死んでいく。私たちには時間がない」
 アルゼンチンで最近、軍政期の弾圧の事実を否定したり、軍政を肯定したりする動きが出ていることも懸念している。
 失踪者を捜す活動は次世代にも引き継がれている。1977年、28歳の時に拉致されたフアン・アサトさんの孫の体育教師マカレナ・ビジャフアンさん(25)は軍政を知らない世代だが、祖父の足跡をたどる作業を続けている。
 アサトさんは労働者革命党の軍事部門「モントネロス」の一員だった。アサトさんの娘である母ベロニカさん(55)は政治を嫌うが、ビジャフアンさんは信念を持って政治活動をしていた祖父を「誇りに思う」と力を込めた。
 ビジャフアンさんは「家族が望むのは失踪者の遺体を見つけて『ああ、ここにいた』と安心すること、そして死者にも安らぎを与えること」だとし、その時が来るまで家族の苦しみや闘いは「終わることはない」と話した。

アルゼンチン・ブエノスアイレスで、行方不明の祖父フアン・アサトさんの写真を持つマカレナ・ビジャフアンさん=3月(共同)

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