大河『家康』小牧・長久手の戦い 家康と秀吉の壮絶な駆け引き “圧勝”を導いたカギとは 歴史学者が解説

NHK大河ドラマ「どうする家康」第32話は「小牧長久手の激闘」。織田信雄(信長の次男・浜野謙太)に加勢し、羽柴秀吉(ムロツヨシ)に対抗することになった徳川家康(松本潤)。家康と秀吉の軍勢がいよいよぶつかる。その様が描かれていました。いわゆる「小牧・長久手の合戦」が始まったのです。

天正12年(1584)3月6日、親秀吉派の重臣3人を居城・伊勢長島城で殺害した織田信雄。秀吉に「宣戦布告」した信雄は、清須城で家康と会見(3月13日)。今後の軍事作戦について、話し合いをしました。6月14日には、早くも、徳川家臣・酒井忠次が、桑名(三重県桑名市)に着陣しています。これは、伊勢国で秀吉軍と何れぶつかることになると、家康らが踏んでいたからでしょう。しかし、3月13日、織田信雄方の犬山城(愛知県犬山市)が、秀吉方の池田恒興(大垣城)、森長可(可児の兼山城)らにより攻められ、奪われてしまうことによって、情勢は変わります。主戦場が尾張国に移ることになるのです。ちなみに、池田恒興の母は、信長の乳母でした。

信長と恒興は「乳兄弟」の関係。よって、信長の子・信雄は、恒興は自分に味方してくれるかもと期待していたようです。そのこともあり、恒興への警戒、備えが不十分だったと言われています。恒興は近年、秀吉方として行動していたので、過度の期待は禁物だったと言えましょう。さて、犬山城陥落を受けて、家康は酒井忠次の軍勢を伊勢から尾張に向かわせます。

そして、3月17日。犬山城から南下した池田恒興・森長可軍と、酒井忠次軍が羽黒(犬山市)で激突します。この羽黒の合戦は、徳川方が勝利するのです。勢いに乗った家康は、小牧山城(愛知県小牧市)に入り、本陣とします(3月28日)。秀吉もまた大坂城を出て、3月29日には、小牧山に近い楽田(犬山市)に陣を置きます。秀吉方の軍勢は、約6万(10万という説もあるが誇張だろう)と言われています。一方、家康・信雄軍は1万5千ほどとされます。何れにしても、大きな兵力差です。

小牧山城は堅固な城でしたので、秀吉は力攻めはしませんでした。味方の損失を防ぐためです。秀吉が目を付けたのは、岡崎城でした。 家康勢を小牧山城に引き付けておいて、その隙に、徳川方の岡崎城を攻め、敵を撹乱しようとしたのです。この三河攻めの総大将は、三好信吉(秀吉の甥。後の豊臣秀次)。

先陣は池田恒興・森長可。約2万5千の軍勢が、三河攻めのため、動きます(4月6日)。しかし、このような大軍の移動は、余程の偽装工作をしたならば別ですが、徳川方の目に付かないはずがありません。秀吉軍の不審な動きを察知した家康は、酒井・石川・本多らを小牧山城に残し、自らは信雄とともに出陣。4月8日に、小幡城(名古屋市守山区)に入ります。翌日、家康軍は、三好軍を奇襲。三好軍は不意を突かれ、総崩れとなります。池田恒興・森長可の部隊も、徳川軍と交戦。激しい戦が繰り広げられますが、両将は戦死します。長久手(愛知県西部)における戦いは、徳川軍の圧勝でした。

(歴史学者・濱田 浩一郎)

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