あの日、晴れた空から…「秩父に空襲」伝える柿の木 半焼も78年間実付ける 84歳と74歳の姉弟「残し続ける」

焼夷弾で幹の中心部が焼けた柿の木を守り続ける大沢文夫さん(右)と浅見ヌイさん=11日午前、埼玉県秩父市中村町

 埼玉県秩父市中村町の地に根付く高さ約5メートルの柿の木。終戦半年前の空襲で幹が半焼して炭化しているが、この78年間、しっかりと青い実を付け続けてきた。戦争被害が少ないとされてきた秩父に残る数少ない爪痕だ。「焼夷(しょうい)弾が落ちたことを証明する唯一の証拠。これからも、この地に残し続けることが自分たちの使命」。所有者の大沢文夫さん(74)と姉の浅見ヌイさん(84)は、柿の木の向こう、かつて爆撃機が通過した青い空を見上げ、戦争のない平和な世界を心から願う。

 「昭和二十年二月十九日、天候・晴、十四時十七分警戒警報発令・ニ十分空襲警報発令、焼夷弾ヲ本町二投下ス、十五時四十五分空襲警報解除―」(県立秩父農工高等学校創立百周年記念誌の年表より抜粋)

 「あの日、小鹿野町方面上空から現れた爆撃機は、(秩父市の)本町や中村町に数発の焼夷弾を投下し、秩父セメント工場(同市大宮)の方へ飛び去っていった」。四男の文夫さんは、亡き母チヨさんから空襲被害の話を何度も聞いていた。

 中村町にあった木造2階建ての大沢家は焼夷弾が直撃して全焼。約2千平方メートルの敷地は柿の木と栗の木を1本ずつを残し、焼け野原となった。秩父に焼夷弾が落ちた出来事は、資料にほとんど残っておらず、地元住民以外には知られていない。

 当時6歳だった長女のヌイさんは「赤い炎と真っ黒い煙が瞬く間に家中に広がり、3人(母、長男、次男)と近くの防空壕(ごう)に逃げ込んだ」と振り返る。農業を営んでいた父の時治さんは、花の木小学校(同市上町)で竹やり訓練中だった。そのためチヨさんが必死に子どもたちを守った。ヌイさんは「避難所で白いおにぎりが配られた時、ようやく気持ちが落ち着いた。あの時のおにぎりの味は格別だった」と静かにほほ笑む。

 空襲被害はこの一度だけだったが、戦況悪化とともに人々の生活は貧しくなっていった。ヌイさんは母の古着をつなぎ合わせて作ったゴムスカートをはいて学校に通学した。食べ物も少なくなり、「みんなに見られたくない」と恥ずかしさが募った。

 焼夷弾の直撃を受けたのは、地元では大沢家だけだった。その後、全焼した土地に麦わら屋根の家が立ち、文夫さんやヌイさんらは約20年暮らした。「裸電球2個の生活で、戸を開けると近所に丸見えの家だったが、地域の人たちが協力して建ててくれたので、愛着が深かった」と文夫さん。

 大沢家の土地に残っているのは、半焼した柿の木のみ。文夫さんは今後、新たな家を建て、大切な空襲の「生き証人」を守り続けていくつもりだ。「戦争被害が少ないとされている秩父地域には、戦争体験を語り継ぐ資料や語り部が少ない。この柿の木が、地域の子どもたちの貴重な教材になってくれれば」と期待を込めた。

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