終戦から78年 平均年齢85歳超…仙台市在住・被爆者の思い「核兵器が無くなるまで」

きょう8月15日は78回目の終戦の日です。被爆者の平均年齢が85歳を超える中、自ら広島で被爆し、核廃絶を訴え続ける仙台市在住の女性を取材しました。

木村緋紗子さん(86)「やはりあんなつらい思いをしたら生きようと思いますもんね。生きて伝えようって思いますもんね」

宮城県原爆被害者の会、会長を務める木村緋紗子さんです。広島市出身の木村さんは、8歳のときに爆心地から約1.6kmの場所で被爆しました。4人きょうだいの長女として生まれた木村さん。医師の父親は広島市中心部で開業し、木村さんは診療所の離れで不自由のない生活を送っていたといいます。「結構ね、広島と仙台って町がね似てます。(仙台でいうと)一番町とかそういうところの繁華街、広島の繁華街。幸せなとってもいい雰囲気の家庭でした」

広島に投下された1発の原子爆弾。往診に出ていた父親や祖父など親族8人を失いました。木村さんは、大やけどを負った祖父の看病をしていた1週間の光景が今も頭から離れないといいます。「6日からずーっとウジ虫取りしてましたね。人間の体ぐらい焼けてくさいものは無いですよ。『おじいちゃん本当にもう嫌だから死んで』って言っちゃいましたもんね。いやーなんてことを言っちゃっんだろうなと」

木村さんは50年以上に渡り、被爆体験の語り部のほか、アメリカ・ニューヨークを何度も訪れて核兵器廃絶を訴えるなど精力的に活動してきました。「核兵器と戦争のない平和な世界を目指す運動をいたしましょう」

終戦から78年。今年はG7広島サミットが開かれ、被爆地・広島選出の岸田総理が開催地としただけに、世界平和への第一歩を踏み出せるのではと期待が高まりました。ただ、各国の首脳が原爆資料館に滞在したのは、約40分。被爆の実情がきちんと伝わったのか、疑問を持たざるを得ませんでした。木村緋紗子さん「さっさと出てきちゃったっていうのが、ちょっと私はわからない。広島でやってよかったっていう評価ばっかりが聞こえてきたんですよ。だからなんで?って思ったんですよ」

G7広島サミットから約2か月。仙台市戦災復興記念館では、原爆死没者を追悼する式典が開かれ被爆者など約70人が参加しました。

仙台二華中学校・井上達弦さん(平和宣言)「平和を簡単に捨ててはいけません。同じ失敗を繰り返してはいけません。平和を持続させるべきです」

現在の被爆者の平均年齢は85.01歳。今年初めて85歳を超えました。3月末時点の県内の被爆者も84人で貴重な当時の証言者が少なくなっています。木村緋紗子さん(追悼のことば)「自らの被爆体験を切々と語ってこられた、被爆者の皆様も少なくなり、悲願達成(核廃絶)への道のりは、なお一層の険しさを感じざるを得ない今日ではありますが、核兵器が地球上から無くなるまで私たちはできる限り語り続けて参ります」

子宮がんなど7回の手術を乗り越えてきた木村さん。親しくしていた被爆者が亡くなる中で自らも心身の衰えを感じていますが、長男の仁紀さんをはじめ被爆2世が支えます。

長男・木村仁紀さん(55)「被爆者の方が県内でもどんどん少なくなってきていて、活動してくださる方々年齢的にもなかなか活動できないと思いますので、どういう形になっていくかはわからないけれど、少しでも継承していければなと思っております」。被爆2世で林俊江・宮城県原爆被害者の会副会長(69)「私たちだけでは2世も限られてますので、多くの方々に一緒に前を向いて活動していきたいなとは思ってます」

木村緋紗子さん「被爆者がいなくなっても、2世や3世、それから平和を願っている人々たちと一緒に、こういう運動を核兵器を廃絶するまでやってほしいって思います」

8月6日を境に人生が一変した木村さん。生きている間はずっと、核兵器の廃絶・戦争の根絶を訴え続けたいと話します。「核兵器を使えば絶対に本当に人間が変わってしまいますよ。私毎日でも怒鳴りたいと思いますよ。『もう戦争はやめて。しないで』って」

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