異色のキャリアを歩みながらJリーグ、ナショナルチームを率いた監督がいる。
現在東海社会人1部wyvern(ワイヴァン)で指揮を執る間瀬秀一監督、現役選手時代は数々の国を渡り歩いて豊富な経験を積んできた。
後にイヴィチャ・オシム監督の通訳としてジェフユナイテッド市原・千葉で初のタイトル獲得に貢献し、監督としてはブラウブリッツ秋田、愛媛FC、モンゴル代表を率いた。
Qolyは間瀬監督に独占インタビューを実施。これまで歩んできたキャリアを振り返る。第1弾は大学卒業後のアメリカ挑戦、メッシを見出した名将との出会い、メキシコでの苦しい日々を語った。
1試合も出られなかった男は名伯楽の一言で目覚めた
――日体大卒業後に米国へ渡りましたけど、日本体育大サッカー部を振り返っていかがでしたか。
僕はいま49歳なんですけど、恐らく日本で一番人口が多い年代なんですよ。第2次ベビーブームという団塊の世代の息子なんですよね。
当時日体大サッカー部の部員がおおよそ360人で、1~5軍ぐらいまであって、一般受験で入った僕は下からのスタートだった。4年次になって1軍でスタートすることができました。
――名門日体大で1軍まで行かれたんですね。
当時の日体大は、シーズン前にヨーロッパのオランダにキャンプへ行っていたんですよ。
(オランダ1部)アヤックス出身のヘンク・テン・カーテという監督がいるんですけど、我々は彼に2週間練習を見てもらいました。
後にヘンク・テン・カーテは(フランク・)ライカールトがバルセロナで監督になったときに、右腕としてコーチをやっていた。その後は(ギリシャ1部)パナシナイコスで監督に就任しました。
日体大の1軍が大体25人いる中で、僕をゆび指さして「お前が一番いい選手だ」と言ってくれたんです。
僕は日体大で1回も公式戦に出なかったんですけど、本場アヤックスのヘンク・テン・カーテから「僕が一番いい選手だ」と言われた。その1回の出来事が僕にとって、将来のサッカー人生を変えるような出来事でした。
――あのリオネル・メッシを見出した名将に認められた経験が自信になったのですね。
日体大では1試合も出てないですけど、その出来事があって「自分のサッカー人生を終わらせたくない」という思いが生まれて、卒業してからアメリカに渡りました。
僕は過去に代理人も通訳も1回もつけたことがないです。行く国の言葉をマスターして、その国のサッカー協会、リーグ、クラブに自分で売り込みました。
知人の紹介もありましたが、自分で売り込んで練習参加して、契約を勝ち取り、自分でその国の言葉で書かれた契約書にサインするということを5カ国でずっと続けてきました。そんなキャリアです。
――後に通訳に就任するほど語学力が長けていますけど、三重の暁高校(進学校)時代から猛勉強されていたのですか。
暁中学、高校時代はそんなに勉強が好きではなかったです(苦笑)。
日体大を一般受験で受けるとき、受験科目に英語があった。英語は自分がサッカーを続ける手段として必要だったので、高校時代から勉強したんですよね。
英語の成績だけ良かったですし、日体大の受験も英語のテストはほぼ全部解答できた。外国語は高校時代から馴染みがありました。
行く国、行く国でスペイン語やクロアチア語をマスターして、いままでやってきた。そういった経緯もあります。
ゴトビのチームで初めての10番に
日体大卒業後に、渡米した間瀬監督。キャリア初のクラブには指導者を始めたばかりのアフシン・ゴトビ監督がいた。
後にアヤックスで技術コンサルタントを務め、韓国代表ではコーチに就任し、フース・ヒディング監督の右腕として2002年ワールドカップ4強入りに貢献。
間瀬監督は、イラン代表や清水エスパルス監督を歴任した名将の指導を受けた。
――卒業後はSFVゴールデン・イーグルス(後のロサンゼルス・ヒーローズ、2002年に解散)に所属されました。
その年(1997年)はアメリカ1部のプロリーグ、メジャーリーグサッカーができたばかりの年だったんですよ。
僕はまず語学留学という形で、アメリカに渡って英語を勉強しました。ある程度喋られるようになって、自分でアメリカのサッカー協会に電話をかけて売り込みをしました。
でも「メジャーリーグサッカーの外国人枠は全部埋まっている」という話だったんですよ。その下のリーグのチームテストを受けたんです。
それがゴールデン・イーグルスでした。そこの監督がアフシン・ゴトビさんというイラン系アメリカ人だったんです。彼がプロキャリアで初めて監督に就任したチームがゴールデン・イーグルスでした。
――アフシン・ゴドビさんの下でプレーしていたことは知りませんでした。
彼が初めて監督やったときの10番が僕です(笑)。面白いでしょ?(笑)
――面白すぎます(笑)。名将ゴトビとそんな繋がりがあったとは…!
僕はそこで半年くらいしかプレーしてないんですけど、10番としてトップ下やシャドーでプレーしました。
後にゴドビさんは韓国の水原三星で分析コーチをしていたんですけど、そのとき僕はオシムさんの通訳でした。オシムさんがジェフに来て韓国のナムエでキャンプをやったときに、僕とオシムさんはチームに合流したんですよ。
キャンプ先のホテルのエレベーターで偶然ゴトビさんと出くわして「えええええ!!?」とビックリして(笑)。
ゴトビの指導はいまも血肉に
――そんな偶然あるんですか(笑)。
そこからまたときは流れて、僕は日本でコーチのキャリアを積んでいました。三浦泰年さんの下で東京ヴェルディのコーチをやっていたときに、サテライトチームを率いてエスパルスと練習試合をしたんです。
当時のゴドビさんはエスパルスの監督だったので、僕が率いたヴェルディのサテライトチームとゴトビさん率いるエスパルスが練習試合をしたこともありました(笑)。
――名将アフシン・ゴドビ監督と半年間チームで過ごしたことで、指導者として生きている経験や参考になった部分はありましたか。
クリエイティビティ(創造性)が高い。練習内容も面白かったし、戦術も独自性があった。
先見の明もあったかもしれないです。(1997年)当時3-6-1をやっていましたから。ペトロビッチさんの3-6-1は、恐らく4-4-2をやっつけるベースとして形を確立したと思うんですけど、それより何年も前にアメリカの2部(相当の)リーグでゴトビさんが3-6-1をやっていました。
当時のサッカーで3-6-1や左のシャドーとか、そういう(概念)のはなかったけど、僕は左のシャドーをやっていた。
あの人はプロフェッショナリズムみたいなものがある。友好的に話しているときは、お兄さんみたいな存在だった。すごく笑顔が暖かい人なんですけど、いざピッチ立ったらプレーに対してはすごく厳しい。僕も何度も怒られました。
通訳や指導者としてオシムさんに怒られたエピソードはよくある話なんですけど、自分が選手としてはゴドビさんに滅茶苦茶怒られました。
多分これを話すのは初めてですね。もちろんその厳しさは勝つため、プロフェッショナリズムのため。もちろん理にかなったことで怒られたんですけどね。
新天地メキシコでは挫折を味わう
――アメリカで半年過ごした後はメキシコへ渡ったと聞いています。どのような経緯でメキシコへ行かれたのでしょうか。
ゴトビさんが率いるチームはカリフォルニアにあったクラブで、多国籍軍なんですよね。
グリーンカードを持っていたらアメリカ人扱いなので、チームはもうブラジル人、アルゼンチン人、エルサルバドル人、イギリス人、アイルランド人、セネガル人もいた。思いつくだけでも、もっといましたね。多国籍軍なので、収拾がつかない時期もあった。
ちょうど、もっと高いレベルでサッカーをしたいと思っていたときにメキシコ人のチームメイトが自分の母国メキシコに戻って挑戦するという話があった。彼が僕に「お前だったらメキシコでも通用する。一緒に行かないか?」と言われてメキシコへ行ったんです。
――メキシコではどのような経験を積まれたのでしょうか。
メキシコでは結果的にプレーしていないんです。ネカクサというメキシコではビッククラブなんですけど、2軍のテストに合格したんです。
2軍のテストに合格したんですけど、その育成枠というのが23歳以下の縛りがあるチームでした。結局僕の誕生日月の関係で、合格後に所属できないことが分かった。
(次は)メキシコ2部リーグのチームの練習に3回行ったんですよね。2週間くらい練習参加して、手応えがあった。向こうから「契約してくれ」という話になったけど、サインする前日の練習中に右足首を骨折したんですよ。
それで結局契約破棄になって…。中米は厳しいですね。サインするはずだったけど、前日に骨折して駄目になった。
――それはもう絶望的な状況ですね…。
それから自分の足首が治ったときには、メキシコのサッカークラブと契約できない時期に入っていた。
それでフットサルをやったんですよ。メキシコのフットサルリーグに声をかけたり、練習参加したりして。(当時の)メキシコのフットサルリーグはメキシコ全土でやるものではなくて、メキシコシティのような都市だけで行われているセミプロみたいなフットサルリーグがいっぱいあった。
僕は日銭を稼ぐために3クラブを掛け持ちして、毎週水曜に行われるリーグでプレーしました。1試合出たら、1ゴール挙げたらいくらとか。それで飯を食っていました。
メキシコで苦しい時期を過ごした後にグアテマラ2部デポルティーボ・アマティトラン、同2部デポルティーボ・ミクトランを経てエルサルバドル2部のCDサンルイスでプレーした。エルサルバドル時代を中心に振り返ったインタビュー記事は関連記事リンクから読むことができる。
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次回は間瀬監督のクロアチアでのキャリアと通訳業に飛び込んだ経緯を掲載する。