「集団疎開先は互いに目を光らせる状態」88歳の少年期、日記に心中書かず

集団疎開先での厳しい生活について、自身の日記をもとに話す外山さん(大山崎町・大山崎ふるさとセンター)

 太平洋戦争で集団疎開を経験した大阪府の男性(88)が、京都府大山崎町の大山崎ふるさとセンターで講演した。当時記した日記を紹介しつつ、周囲の目を気にして文字に残さなかった思いを語り、戦争のない世の中の実現を訴えた。

 外山禎彦さん=河内長野市。国民学校初等科4年だった1944年秋から翌秋にかけ、当時住んでいた大阪市住吉区から岸和田市の山奥へ同級生らと身を寄せた。日記は書籍としても出版された。

 外山さんは「疎開先では互いに目を光らせる状態で、重圧を感じた。日記は誰に見られるか分からないので淡々と書き、弱気や、思っていたことは記さなかった」と不自由さを振り返った。特攻隊の戦果を知った際は「僕も大きくなってあのやう(よう)なえらい人になら(ろ)う」と日記に記述したが、「実際は死ぬのは嫌やと思っていた」と語った。

 勉強の時間が、食糧や燃料の確保、銃剣の訓練のため置き換わっていった様子、疎開先から脱走した子どもがいたこと、終戦2日前に同級生が亡くなったことにも触れた。外山さんは「戦時中の生活は厳しく、貧しい。それを伝えていかないといけない」と平和な社会への思いを語った。

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