敵機を見張る軍事施設“防空監視哨” 10代で任務に就いた亡き夫… 80年前の写真が語る少年たちの戦争 #戦争の記憶

太平洋戦争中に撮影された1枚の写真。かつて愛媛県新居浜市にあった軍事施設の前で撮られた、貴重なものであることがわかりました。画像が物語る戦争とは。

敵の飛行機を見張るための施設「防空監視哨」

郷土の歴史や文化などを研究する民間の団体「伊予史談会」のメンバー、多田仁(ただ・じん)さん(56)。7年にわたり防空監視哨(ぼうくうかんししょう)と呼ばれる軍事施設を調査しています。

太平洋戦争中に作られた防空監視哨は、敵の飛行機を見張るための施設です。敵機の飛来を確認すると本部に伝えられ、その情報をもとに各地に空襲警報が出されていました。ただ、わずかに現存している跡地以外に、監視哨に関する記録はほとんど残っておらず、詳しい実態はわかっていません。

多田さんが今年入手した1枚の写真。新居浜市にあった監視哨の前で、1943年に撮影されたと見られています。多田さんは「監視哨の見張り担当=哨員(しょういん)と女性たちが写った写真は極めて珍しい」と話します。

多田さん 「今まで証言や記録で得られていた女子青年団あるいは勤労奉仕隊、挺身隊みたいなもの。そうした女性たちが慰問に来ているという事実が、ここではっきり写真に残されたということですね」

亡き夫が監視哨の任務に 国を守るため未成年の少年・少女も動員

多田さんが訪ねたのは、新居浜市在住の小野美重子(みえこ)さん(94)。写真は、亡くなった夫・清里(きよさと)さんが保管していました。

多田さん
「監視哨、この建物をご覧になっていますか?」
美重子さん
「監視哨のことを大きな声では言えなかった。女子は皆、銃後の守りをして少年らは交代で番をする。飛行機が来ているか見ていたらしい」

写真には、当時10代後半だった清里さんが写っています。清里さんは、その後、出征。そして1947年、美重子さんと結婚しましたが、監視哨の任務については口にしなかったといいます。

美重子さん
「監視哨とは言っていたが、一切、監視哨の中身のことは外では言わなかった。戦争のことに関しては何にも言えなかった。絶対にそれは言えなかった

防空監視哨での監視は24時間体制で行われ、出征前の主に14~18歳までの少年が任務についていました。

多田さんの調査では、戦時中、愛媛県内には約30か所の防空監視哨が存在し、推定で延べ3000人の少年たちが動員されたと考えられています。少年たちを励ますために、同世代の少女たちが食事などで交流する慰問活動も行われ、清里さんが残した写真は、その際、撮影したものと見られています。

80年前の集合写真には、国を守るために未成年の少年・少女も動員された事実が記録されていました。

「戦争だけはしてはいけない」10代で経験した戦争は今でもつらい記憶

清里さんと同じく10代で戦争を経験した妻の美重子さん。それは、今でもつらい記憶として刻まれています。

美重子さん
「住友の要人さんの奥さんはよく着物を持って『お米と替えてください』って、農家に泣くようにいってきていた。食べるものはないし着るものはない。もうあの戦争だけは言いたくもないし思い出したくもない、あんなばかな戦争は。戦争はとにかくどこの国だって戦争していいことは一つもない。戦争だけはしてはいけない

戦後78年、当時の戦争を知る人は年々減少の一途を辿る中、多田さんは過去の事実を明らかにしていくことが、この国の未来の道しるべになると信じ、研究を続けます。

多田さん
「戦争がどれだけ非経済的で非生産的ってことはもうわかっていると思う。だけど具体的根拠と具体的な戦争を否定する能力というのか、それらをちゃんと分かっていないと、われわれはまた同じ轍を踏む」

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