寺井到(映画『シーナ&ロケッツ 鮎川誠 ~ロックと家族の絆~』監督)- 生活とロックが常にイコールだった日本屈指のロック・ギタリスト、その最晩年を追い続けた記録映画の傑作が堂々の完成

最晩年の鮎川誠を記録するのが運命だったのかもしれない

──2015年6月に放送された『追悼シーナ ユー・メイ・ドリーム~シーナ&ロケッツ物語』(RKBテレビ『豆ごはん』内で特集)を起点として、2022年7月に九州地区で放送された30分のドキュメンタリー番組『74歳のロックンローラー 鮎川誠』、その拡大版として2023年2月5日にTBS『ドキュメンタリー“解放区”』で放送された『シーナ&ロケッツ 鮎川誠と家族が見た夢』、同作の未公開映像を加えて2023年3月に『TBSドキュメンタリー映画祭』にて東京限定で上映された劇場公開版(同年4月に福岡で凱旋上映)と変遷を辿ってきた本作ですが、今回の映画化に至る経緯を改めて聞かせてください。

寺井:TBSとその系列局で放送したドキュメンタリーに追加素材を付け足した作品を映画館で上映しようというのが『TBSドキュメンタリー映画祭』のそもそもの試みで、その映画祭自体が配給会社や一般のお客さんに対するプレゼンの場でもあったわけです。そこで評判が良ければ、全国公開へとコマを進められるという。『シーナ&ロケッツ 鮎川誠と家族が見た夢』を『ドキュメンタリー“解放区”』の一環として制作したときは1時間、正味46分くらいの尺で、映画祭に向けては70分程度の作品に仕上げていく予定だったんですが、ご承知の通り、鮎川さんが今年の1月29日にお亡くなりになってしまった。その時点で配給会社から「全国公開する作品にしてみてはいかがでしょう?」と提案をいただいたんです。

──『ドキュメンタリー“解放区”』で放映された『シーナ&ロケッツ 鮎川誠と家族が見た夢』は今年2月5日に放送が決まっていたところ、その7日前に鮎川さんが永眠するというまさかのタイミングでしたね。

寺井:まるで最速の追悼番組みたいになってしまいましたが、いろんなタイミングが重なった結果だったと思います。最晩年の鮎川さんを記録するのが自分の運命だったのかもしれないけど、その役目は別に僕じゃなくても良かったのかもしれないし、たまたま僕が去年からその作業を始めたに過ぎなかったのかもしれない。でも去年から鮎川さんを追い続けていなければ、鮎川さんの最晩年の姿を記録しておくことはできなかったわけで。シーナ&ロケッツのライブはスタッフの皆さんがその都度撮影していたけど、ステージを降りた鮎川さんのその時々の感情や舞台裏で起きていたことまでは記録されていなかったし、それらを僕が取材していたことが今回の映画に繋がったとは言えますね。大袈裟に言えば、鮎川さんの人となりをちゃんと残しておけという天の指令みたいなもの、目に見えぬ何かに突き動かされていたんじゃないですかね。

──“ROCK'N ROLL MUSE”の思し召しみたいなものがあったと。

寺井:そういう偶然以上の何かがやっぱりあったような気もします。

© RKB毎日放送 / TBSテレビ

──今にして思えばと言うか、撮影や編集の過程で鮎川さんがタイムリミットを覚悟している瞬間に気づいたようなことはありましたか。

寺井:あったのかもしれないけど、そういうのはどうしても後づけになってしまいますよね。去年の5月に膵臓がんが発覚して余命5カ月の宣告を受けていたことを鮎川さんは家族以外に公表していなかったし、今後の音楽人生について聞いても、いつも通りの前向きな発言しかしていなかったし。本編には使わなかったインタビューで「来年75歳を迎えますが、まだまだバンドをやり続けていかれますよね?」と聞いたら、「ブルースマンみたいに椅子に座ってギターを弾いたっていい」みたいなことをお話しされていたんです。いま思えば残酷なことを聞いてしまったなと思いますが、鮎川さんは至って普段通りの前向きな鮎川さんでした。残された時間の中で一本でも多くライブをやりたいという意識が強くあったと思います。

──テレビ放映なり、一度劇場公開したものをアップデートする上で気に留めたのはどんなところでしたか。特に今回は鮎川さんの死を取り扱わざるを得ないし、前向きな鮎川さんの人となりを描く上であまり湿っぽいものにしたくないという意図もあったのではないかと思いますが。

寺井:そもそも作品の推敲を重ねていく作業自体が初めてのことで、その都度真摯に取り組んでいくしかなかったですね。ずっと追い続けていた鮎川さんがお亡くなりになったことで、鮎川さん自身の言葉はもう聞けなくなってしまったけれども、鮎川さんと縁の深かった方々、シーナ&ロケッツに影響を受けた方々という他者が語る鮎川さんの言葉をまとめる作業を今回は割り切ってできたのかもしれません。

──寺井監督が最後に鮎川さんとお会いしたのはいつ頃だったんですか。

寺井:去年の11月ですね。佐賀でライブがあって(佐賀バルーンフェスタ)、その翌日も福岡でお会いしました。この映画には使ってないんですけど、ジュークレコードの松本(康)さんの遺品の中にサンハウスのごく初期のライブ・テープがあったんです。それを鮎川さんに聴いてもらおうと思って、ライブの後にRKBへ寄ってもらったんです。テープを聴いてもらったら、「これは俺も知らんね」とお話しされていました。そのときもちょっとお痩せになったなとは感じましたけど、全然辛そうではなくて。去年は“鮎川誠 Play The SONHOUSE”というプロジェクトも始まっていたし、そうした秘蔵音源の発掘を含めて、まだまだこの先も鮎川さんのバンド人生は続いていくんだろうなと感じながら撮影を続けていました。だけどお亡くなりになってしまったことで、その方向性がそぐわなくなってしまったんです。

大切な家族との生活とロックはちゃんと両立できる

──そこを補って余りあるのが関係者の証言で、とりわけ陽子さん、純子さん、ルーシーさん(知慧子さん)というご家族三姉妹の言葉がとても貴重で重要なポイントだと思いました。バンドのマネジメントを務める純子さんの治療に専念してほしいという意向に対して「自分の生きがいを奪わないでほしい」と鮎川さんが語ったというエピソードには生粋のバンドマンであることを貫いた鮎川さんの矜持、生き方が凝縮しているように感じましたし、本人が直接語るよりもその人の特性が伝わる好例ではないかと感じました。

寺井:ロックンローラーとして現役を貫いてほしい思い、父親として長く生き続けてほしい思いにとりわけ引き裂かれたのが三姉妹の中では純子さんだったのではないかと思います。バンド活動を支える立場と家族としての立場が一致しないという点において純子さんは相当悩み抜かれたと思いますが、結果的には公的なスタンス、マネージャーの立場を選んだ。それはとても辛い選択だったと思います。これは純子さん自身、お話ししていたことですが、「マネージャーという立場を選んで以降、公に感情を出せなくなっていった」と。実の父親でありながら日本屈指のロック・ギタリストでもある鮎川さんの病気を気遣いつつ、そうした感情を押し殺してバンドを支え続けることを求められたわけですから。鮎川さんの死後、陽子さん、純子さん、知慧子さんの語った心境や立場が三者三様なのも興味深いですね。現実を受け入れて、ある種達観したようにも感じる純子さんの言葉もあれば、未だ現実を消化できていないと語られる知慧子さんの言葉もある。さらに言えば、「あの妹の言葉は自分の思いを代弁してくれました」と純子さんが後日話してくれたんです。つまり、裏方に徹していた自分にも現実を消化できていない部分があると。僕らはただ大好きなアーティストが亡くなってしまったという感覚だけど、ご家族にとっては大切な父親を失ってしまったわけですから、われわれには想像もできない重みや複雑な思いがあって当然だと思います。知慧子さんにしても、いつ倒れるかわからない父親の横で唄い続けるのは大変な気力と体力を求められていたと思うし、病床に伏す父親を看護しながら個展に出品する絵画を描き続けた陽子さんにも絶えず苦悩があったはずですし。自分としてはあまり追悼映画みたいな感じにはしたくなかったし、鮎川さん自身が常に明るく前向きな方だったので尚のこと湿っぽくしたくはなかったんですけど、だからと言って家族の背負う悲しみや辛さから目を背けるのは違うなと思って。

© RKB毎日放送 / TBSテレビ

──タイトルにもある通り、ロックと家族・家庭を両立させた鮎川さんのパーソナリティが本作の主題と言うか、そうした懐の深さがいかにして育まれ、周囲に影響を及ぼしたのかが主観であり一貫した視点のように感じましたが、監督の置かれた焦点とはどんな部分でしたか。ロックという表現、家族・家庭という集合体は一見相容れないもののようにも感じますが、そうした要素を無理なく共存させて公にしたことが鮎川一家のユニークな一面だったと本作を鑑賞して実感したのですが。

寺井:ロックと家族が相容れないものというのも、こちらの思い込みなのかもしれませんよね。と言うのも、スクービードゥーのコヤマ(シュウ)くんがこの映画を観てくれて、「みんな至って普通のことを話していますね」という感想をくれたんです。つまり、ロックに求められる過激なイメージと言うか、ホテルの窓からテレビを放り投げるみたいな突き抜けたエピソードは全然出てこない。だけど別にそんな特異なことをしなくてもロックはやれるし、結婚して子どもたちを育てながらでもロックを続けられる。それを体現し続けた鮎川さんはユニークと言えばユニークな存在なんでしょう。でも、鮎川さんもシーナさんもそれをごく普通のこと、当たり前のこととしてやり続けていた。刹那的に過激に生きることをしなくたってロックはやれる、大切な家族との生活とロックはちゃんと両立できる好例としてこの映画を観ることもできるんじゃないですかね。まあ、それで「ロックとは何か?」という命題を僕自身が突き詰められたのかと言えば全然そんなことはないし、そもそもそんなテーマ自体が自分には恥ずかしくて言いづらい(笑)。だけどロックだからと言って身構える必要はないし、生活とロックがイコールだっていい。鮎川さんはロックの鉄則として「自分で決める。ただそれだけ」とよく仰っていましたけどね。8ビートでなくとも、ギターを使っていなくともロックに聴こえることもあるだろうし。

──意外だったのですが、寺井監督は福岡育ちであるにもかかわらず、思春期にはめんたいロックと呼ばれるジャンルとは敢えて距離を置いていたそうですね。そこからどんな経緯で理解を深めるようになったのですか。

寺井:当時の“博多のロックはこうあるべき”という圧みたいなものに取り込まれたくない感覚は、おそらく地元の人間じゃないとわからないでしょうね。昔はブリティッシュ・ロックとかルーツに根差した音楽が好きで、リアルタイムの洋楽はあまり聴いていませんでした。具体的に言えば、中学時代に第2次ブリティッシュ・インベイジョンと呼ばれたカルチャー・クラブやデュラン・デュランみたいなものがすごく流行って音楽に目覚めて、その後に音楽誌を通じてパンクを知って、当時の地元はハードコア・パンク全盛の時代だったんですけど、僕はそこには馴染めなかったんです。日本のバンドなら、ルーツっぽい音楽をやっていたコレクターズみたいなバンドやブルーハーツとかを好んで聴いていました。転機があったとすれば、大学になって北九州から福岡へ出てきたときにジュークレコードの存在を知ってからでしょうね。コレクターズが推薦していたキンクスやフーのCDやレコードが山のように置いてあって、後になって店主の松本さんが日本有数のキンクス研究家だと知るわけです。本来はめんたいロック特有の上下関係みたいなものとは無縁でいたかったけど(笑)、そうしたルーツ音楽を深く知れば知るほどシーナ&ロケッツやサンハウスのような偉大なる先人たちの音楽に対してリスペクトの念を抱くようになったんです。

70年代の福岡で音楽を継承する土壌が生まれたのはなぜか

──鮎川さん然り、先日亡くなった頭脳警察のPANTAさん然り、日本のロック黎明期から活躍していた重鎮ほど人当たりが良く、物腰が低く、決して偉ぶらないんですよね。

寺井:僕も鮎川さんのことを、めんたいロックという上下関係のトップにいる方だと思っていたんですけど、そうした体育会系的なこととは一番無縁の方だったんですよね。松本さんもそういう方で、年下でもフラットに接してくれました。

──松本さんが亡くなった後に鮎川さんとルーシーさんがジュークレコードを訪れるシーンがありますが、監督にとっても思い入れのある場所だったわけですね。

寺井:足繁く通っていたので、僕自身、いろいろと感慨深いものがありました。松本さんが亡くなってジュークレコードが急遽閉店することになり、閉店する前に松本さんのことを鮎川さんに語ってほしいとオファーしたんです。それで二つ返事で快諾してくださったんですけど、当時は余命宣告を受けてすでに数カ月経っていたんですよね。それなのにすぐ飛んできて、親友のことを嬉しそうに語ってくださって……。自分があとどれくらい生きられるかわからないという時期にそんなことをするなんて、自分にはまずできないと思います。

──しかもそのジュークレコードの撮影シーンで三姉妹の名前の由来が明かされるというのが、ロックの女神と言うのか映画の神様と言うのか、ちょっとした奇跡みたいなものを感じずにはいられないんですよね。

寺井:自分でもいい場所で話を聞けたなと思います。レコード棚やレジなど店内のいろんな所を撮影していたら、鮎川さんとルーシーさんが雑談しているような雰囲気だったんですよ。そこで鮎川さんに聞いてみたんです。「ルーシーさんってどんな娘さんですか?」って。そしたら「知慧ちゃんは賢い」って言い出して。賢い=“慧”という字が名前に入っていて、そんな話から三姉妹の名前に込めた思いを聞くことができたんです。それで最後に「“誠”という名前はご自身に何か影響を与えましたか?」と鮎川さんに聞いたら、「“誠”はいい加減の象徴」なんて答えてくださって(笑)。ああいう自分の話題になった途端に話をサゲる感じ、照れて逃げるみたいな感じがいかにも鮎川さんらしいですね。

──純子さんの娘・唯子さんを溺愛する鮎川さんの祖父としての姿を収めたシーンも貴重ですね。唯子さんの存在自体が希望の象徴であり、祖父と孫の触れ合いは命のバトンがしっかりと受け継がれている象徴のようにも感じますし。

寺井:お客さんには見えない姿、たとえば開演前の楽屋での鮎川さんの姿なども撮ったほうがいいなと、取材の過程で思ったんです。おそらく家族の話になるだろうと漠然と感じていたので、楽屋での知慧子さんや純子さんとのやり取りを撮ってみたりとか。ただし「こういう話にしよう」と決めつけて撮るのは違うし、自分の思い描く画に現実を当て嵌めていくことはしないように意識しました。

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──本作は福岡のロック文化の揺籃期を今日に伝える側面もあると思うんです。たとえばジュークレコードの松本さんも主要メンバーの一人だったロック喫茶・ぱわぁはうすで、サンハウスのメンバーが中心となって『ブルースにとりつかれて』というブルースのレコード・パーティーが月一回のペースで開催されていたことが本作でも紹介されていますが、そうした音楽文化の継承が福岡のロック・カルチャーの形成に果たした功績は非常に大きいですよね。『ブルースにとりつかれて』のような進歩的な試みが成立する土壌だったからからこそ、サンハウス以降にシーナ&ロケッツ、モッズ、ルースターズ、ロッカーズ、アクシデンツといったルーツ音楽を分母に置いたバンドが次々と出てきたわけですし。そうやって音楽の伝承的地層が連なっていくのは同時代の都道府県で福岡以外に見当たりませんし、福岡という局地的なエリアで音楽の文化継承が当たり前のように行なわれていたのはなぜだと思いますか。

寺井:そうした福岡独自の音楽的土壌自体を、鮎川さんなり柴山(俊之)さんなりが作り上げていったということでしょうね。『ブルースにとりつかれて』はロックのルーツとしてのブルースを学ぶ催しで、つまり音楽を歴史として捉えたわけですよね。ロックなりブルースなり、あらゆる音楽はそれまでの歴史の連なりの末に生まれたものだという考えが鮎川さんたちの世代にはあったんでしょうし、その考え方がなぜ福岡という土壌に染みついたのかは未だ謎ですけど、一つには『ブルースにとりつかれて』のようなイベントを大学生が主催したことが大きかったんじゃないでしょうか。鮎川さんは九州大学、柴山さんは福岡大学をそれぞれ出ているし、ティーンじゃない知的好奇心旺盛な学生たちが新たなカルチャーとしてブルースを受容したことがポイントとして大きかったと思います。感覚的にただ楽しい、面白いだけではなく、体系的にそれを学んでみようという大学生特有の発想があったんじゃないですかね。その試みをイベントとして実施することで、若い世代が同時に何十人も体験したからこそ、音楽を歴史の蓄積として捉える行為が土地柄として染みついていったのではないかと僕は思います。さっき松本さんの遺品の中にサンハウスのライブ音源が見つかった話をしましたけど、山善(山部善次郎)さんがやっていた田舎者のライブ・テープも見つかったんですよ。その音源の中で、キンクスの「I Need You」をカバーしていたんです。70年代初頭の日本でそんな曲をやるなんて、他の地域じゃ考えられませんよね。鮎川さんも同時代の洋楽を強く意識していたし、演奏するのは小さなロック喫茶だったんだろうけど、そこでは「ストーンズは3枚目まで聴いとかなきゃ絶対ダメよね」とか「キンクスは××を聴かな話にならん」みたいな共通認識がはっきりあったんだと思います。それが下の世代に受け継がれてバンドを始めて、そのバンドを観たさらに下の世代へロックの共通認識が受け継がれる…というのがめんたいロック隆盛までの流れですね。ルースターズやロッカーズの面々は、サンハウスやシーナ&ロケッツが音楽を歴史として捉えてバンドをやっていたのを生で観ていた人たちじゃないですか。特にルースターズがなぜサンハウス直系なのかと言えば、この映画の中で大江(慎也)さんや花田(裕之)さんが証言していますが、鮎川さんがシーナさんの実家があった北九州市の若松に住んでいた頃に直接交流があったからなんです。デビュー前の大江さんや花田さんにとって、鮎川さんとの音楽的交流から得たものはとても大きかったでしょうね。

映画を完成させたことで自分なりに筋は通せた

──本作で「鮎川さんとシーナがいなくなったことは大したことじゃない。“いた”ってことがすごいんだ」という名言を残した甲本ヒロトさん(ザ・クロマニヨンズ)の出演は、監督がブルーハーツを好きだったがゆえのオファーだったんですか。

寺井:それよりも、ヒロトさんが鮎川さんについて語ったエピソードを聞いたことがあったからなんです。高校時代にラジオ局の前で鮎川さんとシーナさんの入り待ちをしていたら、そのままラジオ局の中へ連れていってもらったという。その話がすごく印象に残っていたので、それをヒロトさんから直接聞ければ、鮎川さんが昔から分け隔てなくファンと接していたことが伝わると思ったんです。

──ラジオを見学した後、「僕はまだロック未体験だけど、僕にもロックンロールができるような気がするんです」と話したヒロトさんに、「大丈夫。きっとできるよ!」と鮎川さんが強く勧めたという有名なエピソードですね。

寺井:その鮎川さんの一言が何を引き起こすのかは後になってみなければわからないし、そういうことを言われてもリスナーで終わった人もいるでしょう。でも少なくとも、鮎川さんの言葉と振る舞いがブルーハーツの甲本ヒロトを生んだわけですよね。それは純粋にすごいことだと思うし、ヒロトさんも鮎川さんに対して恩義を感じているからこそあのインタビューに応えてくれたと思うんです。ヒロトさん自身、「一生かけて恩返しするわ」と鮎川さんに伝えたと言いますしね。

──ヒロトさんの上京当時のバイト仲間だった松重豊さんは俳優という異業種で活躍されていますが、鮎川さんから受け継いだロックのDNAを今なお身に宿しているのが如実に窺えましたね。

寺井:松重さんには初めて話を伺ったんですが、俳優と言うよりも音楽人という印象を強く受けました。それほど松重さんの人格形成において音楽を占める割合が高かったんだろうと思います。

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──松重さんが仕事の選択に迫られたときに、それがロックか、ロックじゃないかで考えるという趣旨の発言をされていましたが、寺井監督にも同じような発想はありますか。

寺井:ロックかどうかということよりも、筋が通っているか否かで考えますね。ビジネス的な意味合い以外の部分でそれが好きなのか? とか、本当にそれを良いと感じているのか? とか。まあ、こうして映画が完成した以上、多少は収益のことも考えないといけないんですけど(笑)。

──でも、シーナ&ロケッツも名声や金なんてことは二の次で、ただバンドをやりたい思いだけで半世紀近く続いてきたわけじゃないですか。

寺井:バンドは人間関係が大変だし、割に合わないことも多いし、お金儲けをしたいなら別の仕事をしたほうがいいとすら思うんです。それでもバンドをやりたい人たちは後を絶たないわけで、この映画を観て、バンドをやりたい原動力や魅力の中心にあるものとは何なのかをそれぞれが考えてもらえたら嬉しいですね。シーナ&ロケッツが始まったことで、鮎川さんの生き方、家族の在り方は決して切り離せないものになっていったんだろうし、実際、劇中で鮎川さんも「生活とロックはイコールという世界に、シーナが引き込んでくれた」と話していますよね。それまでどこか理詰めで物事を考えるタイプだった鮎川さんを、衝動の赴くがままに「やりたいからやるんだよ!」とパワーを与えたのがシーナさんだったんじゃないですかね。シーナさんに突き動かされたことで鮎川さんの運が開けたところもあったと思います。若松で思いきりバンドができなかった頃の鮎川さんって、きっとしょんぼりしていたと思うんです。本領を発揮できずに燻っていた鮎川さんには「東京で勝負してこい!」とシーナさんのお父さんに言わせる何かがあったんだと思うし、勝負させてあげたいという魅力もあったんでしょう。実際、ずっと密着させていただいた鮎川さんは本当に魅力的な方でしたから。

──シーナさんが亡くなったことで芽生えた鮎川さんとのご縁でしたが、この映画完成に至るまで、実に濃密濃厚な8年だったと言えるのでは?

寺井:シーナさんがお亡くなりになったことで、結果的に鮎川さんとご家族とのより深い縁をいただけたこともあるし、最初の鮎川さんへのインタビューは本にもなっているんです(『シーナの夢 若松, 博多, 東京, HAPPY HOUSE』、2016年8月刊)。自分が関わった仕事が本になるなんてそれが初めてだったし、こうして映画になるのも当然初めてだし、そうした貴重な経験はすべて鮎川さんとご家族からいただいたものなんです。福岡で音楽の仕事に関わる人間として言えば、福岡のロックの御本尊、総本山と言うべき鮎川さんに焦点を当てた映画の制作に関わることができたんですから、これで自分なりに筋は通せたなという気がしていますし、本当に有り難いことだと感じています。

──最後に、寺井監督が鮎川さんから学んだ一番大きなこととは何ですか。

寺井:まるで実践できていませんけど、誰に対しても同じ態度を取ることですね。肩書きも身分も関係なく、分け隔てなく接すること。ああいう接し方がなぜできるのか、ずっと不思議でした。大御所なのに誰とでもフラットに接するあの距離感、懐の深さ、底抜けに優しい人柄が、この映画でも如実に伝わると思います。

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