「K-1王者」と出会いプロシネツキに驚愕したクロアチア時代…間瀬秀一監督インタビュー

異色のキャリアを歩みながらJリーグ、ナショナルチームを率いた監督がいる。

現在東海社会人1部wyvern(ワイヴァン)で指揮を執る間瀬秀一監督、現役選手時代は数々の国を渡り歩いて豊富な経験を積んできた。

後にイヴィチャ・オシム監督の通訳としてジェフユナイテッド市原・千葉で初のタイトル獲得に貢献し、監督としてはブラウブリッツ秋田、愛媛FC、モンゴル代表を率いた。

Qolyは間瀬監督に独占インタビューを実施。これまで歩んできたキャリアを振り返る。第2弾はクロアチアでの挑戦と現役引退、クロアチアの英雄との会合、通訳への転身を語った。

K-1初代王者を伝ってクラブを探す

――グアテマラ、エルサルバドルでプレーした後に、クロアチアへ渡った経緯を教えてください。

日本に一時帰国して、レベルが高いところでやりたいという想いがありました。それでクロアチアに行くことになったんです。全然サッカーと関係ないんですけど、自分の知人に格闘技の記事を書く方がオランダのアムステルダムに住んでいたんですよ。

その方が以前、格闘技のK-1(プロキックボクシング)グランプリ初代チャンピオンのブランコ・シカティック(2020年3月23日死没)の記事を書いたことがありました。

僕がその方に「ヨーロッパでサッカーしたい」と相談したら、「ブランコ・シカティックだったら紹介できる」と言われたんです。

日本からアムステルダムに渡ってその人と1度落ち合って、アムステルダムからクロアチアに飛んで、K-1初代チャンピオンのブランコさんが空港まで迎えに来てくれました。

初日だけ家に泊めてもらって、2日目からまたクロアチアでのチーム探しが始まりました。

全盛期に引退を選択

――クロアチアのキャリアの経緯が予想外過ぎました。

クロアチアでは3部リーグを渡り歩きました。どんどんキャリアアップして、最後はクロアチア2部NKトルニェという首都ザグレブにあるクラブでプレーして現役を終えました。

そこでのキャリアが1番リーグのレベルも高かったし、レベルが高い中でも自分が1番活躍できた場所でした。

28歳で引退を決意しました。僕は自分のキャリアの中で1番いいときに、(キャリアで)1番実力が高いチームの中心になって、実力も発揮したところで自分のサッカー(選手)人生を終えたんですよ。

――キャリアの絶頂で引退されたんですね。なぜそのタイミングだったんですか。

なぜなら僕の中で「28歳になったときに、日本代表になれてなかったら辞める」と決めていたからです。

だから5カ国を渡り歩いて、自分の中でサッカー選手生活をやり切ったという充実感がありました。クロアチアの2部で活躍するまでが自分の限界だったんですよね。

クロアチアのレジェンドとマッチアップ

――キャリアの絶頂での引退は、すごく難しい決断だと思います。

僕は1部でもプレーしていないし、代表でもプレーしていない。選手としては「敗北を認めた」という感じですね。

実はクロアチアの1部のチームのテストを2回受けているんですよ。1つは(HNK)シベニクというクラブで、もう1つはNKフルヴァツキ・ドラゴヴォリャツというクラブです。

両方とも1、2週間練習参加している間に、自分のプレーを見せました。特にドラゴヴォリャツは、(元クロアチア代表MF)ロベルト・プロシネツキがいました。当時はボバン、シュケル、ボクシッチが有名でしたけど、クロアチア人からしたらプロシネツキが一番なんです。

プロシネツキがスペインでプレーして、晩年のキャリアをクロアチアに戻って、ドラゴヴォリャツにいたんですよ。僕は2週間ほど、プロシネツキとマッチアップしました。

当時は世界選抜があって、(プロシネツキは)世界選抜に選ばれる人。僕は彼とマッチアップで守備してボールを奪おうとしても、1回もボールに触れられなかった。それぐらい体もデカいし、足も長いし、テクニックもありましたし、その上周りも見えていました。

――プロシネツキとプレーしたエピソードは驚きですね。入団テストはどうでしたか。

紅白戦や練習試合をしたときに、僕はほぼ毎試合ゴールを入れたんですよ。それでも契約できなかった。そのとき当時の監督から「お前のレベルはクロアチア人と同等だ」と言われたんですよ。

でも実際に点も取れたし、「同等」というのは悪い話じゃないですけど、「助っ人外国人」としては契約するほどのレベルじゃなかったんです。なので、結局最後は2部で(キャリアを)終えました。

もしそこで自分がプロシネツキと一緒にプレーできるところまで行けたら、もしかしたら当時の日本代表に入れたかもしれないですね。プロシネツキと一緒にプレーしていたらね(笑)。でもそこまでは行けなかったです。

現役引退後は通訳の世界へ

――その後ザグレブ大学のクロアチア言語コースに留学されました。なぜ通訳の世界に飛び込もうと思ったのでしょうか。

僕は現役引退したら貿易ビジネスをやろうと思っていた。ただせっかくサッカー選手もやって、言葉もいくつかできた。

(通訳業を選んだ理由の)1つはクロアチアに日本人の知人がいて、彼もサッカーをやっていた。彼がいち早く先にセレッソで「監督通訳」を始めたんですよ。自分も1度Jリーグで選手の通訳をするのはいいんじゃないかと思って、手始めにやろうと思いました。ザグレブ大学でクロアチア語を習得しているときにポルトガル語も勉強したりして。

過去にポルトガル語、スペイン語、もしくはユーゴ系の言葉を喋る選手が所属したクラブをネットで調べて、メールで履歴書を送りました。通訳を募集してないのに勝手に送ったんですよ(笑)。

――留学を終えてから各クラブに連絡したのですね。

通っている途中で、(連絡した時期は)2002年の年末でしたね。

――なぜそのタイミングで連絡したのでしょうか。

なぜならJリーグのシーズンは、そこで切り替わるじゃないですか。そしたらジェフだけが返事をくれたんですよね。

ジェフがオシム監督を新たに招へいするのに「オシムさんが自分の国の言葉でやりたいと言っている」というので。そして当時のGMの祖母井(秀隆)さんやオシムさんと会って面接をしました。

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次回はジェフユナイテッド市原・千葉の通訳に就任した間瀬監督とオシム監督との思い出深いエピソードを掲載する。

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