「怪物」は後輩ランナーを壁となって跳ね返し続けた…浜田安則さん、競技の糧は県下一周駅伝 信念貫いた孤高の人

1972年の鹿児島国体(太陽国体)で35キロロードレースを制し、表彰台で観衆に応える浜田安則さん(中央)=鹿児島市の県立鴨池陸上競技場

 77歳で亡くなった浜田安則さんは高い壁だった。鹿児島の後輩ランナーたちは、挑んでははね返され続けた。約20年間出場した県下一周駅伝の区間勝率は8割。「浜田の前には3分必要」と大きな差があっても逆転を恐れられた。

 1980年の第27回大会、社会人2年目の20歳だった川辺チームの山中勝夫さん(64)=南種子町=も「怪物」の力を体感した1人。最終日の9区。山中さんは浜田さんと3キロに渡って先頭争いを演じた。残り1キロ付近で浜田さんがロングスパート。離れていく浜田さんは一度だけちらりと振り向いた。「もう追いつけないのに伝説の人を振り向かせた。ただそれだけのことが自信になった」

 浜田さんにとって県下一周駅伝は競技を続ける糧だった。「沿道には鈴なりの応援。県下一周を抜きにして、アジア大会や日本選手権の優勝は考えられなかった」と本紙の取材に答えている。

 小中学校は運動会が苦手だった。高尾野中の校内持久走大会でもビリに近い。ただ教師の「めしだけ持ってこい。おかずは出す」という言葉に誘われて始めた猛特訓でぐんぐん力を伸ばした。

 大学1年で県下一周に初出場。卒業後は高校教諭となった。生徒に見られる立場になり競技に本気になった。3年後の71年には日本選手権1万メートルを制覇。頂点に立った74年アジア大会では、表彰台で君が代を耳にして初めて笑顔を見せた。

 前鹿児島陸協理事長の山方博文さん(73)は「孤高の人だった。数々の功績は徹底した節制とトレーニングのたまもの」。都道府県対抗駅伝鹿児島チーム総監督の高山克司さん(56)は「高みを目指す信念は鹿児島の遺伝子として受け継いでいきたい」と話す。

 ソウル五輪にマラソン女子代表として出場した窪田久美さん(57)=霧島市、旧姓荒木=は京セラ時代、監督だった浜田さんと一緒に月間千キロを走ったこともある。「浜田さんが誘ってくれなければ実業団に入ることはなかったし、五輪に出ることもなかった。アスリートとしての心構えを教えてくれた恩人です」と表現する。

 京セラを創業した故稲盛和夫さんと意見が分かれても、譲らない強さがあった。「アスリートはちょっと変わっているぐらいでいいんだ」が口癖だった。病を患っても周囲に伝えなかったことは「決して弱みを見せなかった浜田さんらしい」。最期まで信念を貫いた人生だった。

浜田安則さん(左)と競り合う山中勝夫さん=80年2月13日、鹿児島市大崎鼻付近

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