《戦後78年》戦災の記憶残したい 茨城・行方の鬼沢さん 慰霊地蔵機に座談会 #戦争の記憶

地蔵に手を合わせる鬼沢甚一さん=行方市手賀

「戦争を二度と繰り返さないためにも経験者の記憶を残し続けたい」。茨城県行方市藤井の鬼沢甚一さん(86)は戦争末期、目の前で墜落する日本軍機の姿を今でもはっきり覚えている。搭乗員の慰霊のための地蔵が地元に建立されたのを契機に、家族や地域の中で語り継がれてきた戦争について見つめ直し、座談会を開くなどを通して平和の大切さを訴える。

■異変

同市手賀の県道沿いに「交通安全身代(みがわり)地蔵尊」と刻まれた石碑と地蔵が立つ。交通量の多い幹線道路を見守るように、ひっそりとたたずむ。地蔵は地元の観音寺が毎年法要を営む。鬼沢さんは地蔵の近くを通るたびに気にかけている。

1945年、当時7歳の鬼沢さんは、自宅近くで遊んでいたところ、雲が覆っていた上空に異変を感じた。「日本軍の複葉機がバラバラになり、落ちて行った」。その光景は今も、目に焼き付く。艦載機の機銃掃射を避けるため、空襲警報が出るたび、近くの山に逃げ込んだ思い出も心に残る。「牛でも何でも動くものは撃たれる。じっとしていた」

■転機

終戦から半世紀後、当時の記憶を呼び起こす転機が訪れた。95年に建立された交通安全身代地蔵尊の像がきっかけだった。碑文には45年2月16日、鹿島海軍航空隊所属の航空機が米軍機の奇襲を受けて2人の搭乗員が亡くなり、慰霊のため墜落からちょうど50年後に建てられたと刻まれている。建てたのは同じ部隊にいた元搭乗員2人。同じく撃墜されたが、2人は奇跡的に生還した。

鬼沢さんは当時の状況を調べ始めた。資料が少なく、記憶の薄れもあって人々の目撃証言も少しずつ違っていたが、元搭乗員の手記などから「あの日、自分が見た機体はこれだったのだろう」と結論付けた。

■共有

2018年、鬼沢さんは近くに住む仲田豊雄さん(79)らと協力し、「みんなが見た話、経験した話を再確認しよう」と、地元の公民館で「行方戦争体験座談会」を企画した。市の協力もあり、当時30代~80代の二十数人が参加。鬼沢さんの話のほか、「日本軍の航空機が市内に墜落して炎上し、民家も焼けた」など生々しい話が披露されたほか、若い世代は親や祖父母から聞いた話などを語り、当時の思いを共有した。

座談会から5年がたち、戦争を知る世代はさらに減った。鬼沢さんは「戦争で若く有為な人材が失われた。戦時中、それぞれの地元で何があったのか、関心を持ってほしい」と願う。

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