反戦にじむ「決別文」 海外勤務の夢破れフィリピンで戦死の男性、弟に書き残す #戦争の記憶

フィリピンで戦死した伯父健三さんの「決別文」を掛け軸にして飾る相根一雄さん(綾部市篠田町)

均君モ恐(おそら)ク兵隊トナルモ職業トスルハ充分ニ心掛ケナサイ-。

 京都府綾部市篠田町の相根一雄さん(75)の伯父で、出征先のフィリピンで戦死した健三さんが、戦地へ赴く前に父母と一雄さんの父で弟の三郎さん、均さんに宛てた「決別文」の一節だ。半紙3枚に丁寧に筆書きされている。一雄さんは掛け軸にして客間に飾っている。

 「八つ歳が離れた均さんには軍人になるな、という願いが込められている。家族との別れは悲しい。戦争はしたらあかんという思いがあったんやろ」。約30年前、実家の蔵から健三さんの旅券とともに、ひもで丸めた状態で見つかった。反戦の遺志を読み取り、「家宝にすべきだ」と表具店に持ち込んだ。

 健三さんは、福知山市の旧陸軍歩兵第20連隊で幹部を務めた父や、士官学校出身で東京の連隊長を務めた叔父らに囲まれた「軍人一家」の次男に生まれた。三郎さんの話では「電車に乗ると、学生が静まり返るほど威厳があった。下級生をいじめる学生を叱ったこともあり、正義感が強く真っすぐな人だった」という。

 だが、健三さんは「海外の商社で働きたい」と夢見て、軍に入隊せず旧制舞鶴中から東京の海外高等実務学校に進んだ。卒業後の就職先はフィリピンの商社に決まった。1940年7月に取得した旅券には、整った筆記体の英語で名前や住所が書かれていた。「うれしくてたくさん勉強したのだろう」。あとは身支度を終え、フィリピンに渡る船に乗り込むだけだった。

 41年12月8日、日本軍がハワイの真珠湾に攻撃を仕掛け、フィリピンに駐在する米軍に開戦したことで状況は一変した。神戸港から乗るはずだったフィリピン行きの船は出港が取りやめになった。

 戦時中に父を病気で亡くし、軍人一家として国に仕える使命を感じていた健三さんは、陸軍の志願兵となった。決別文では、亡き父に「御奉公ヲ尽シ直(じき)ニ亡キ父上ノ御許(もと)ニ参上シ…」と国に命をささげる覚悟を示し、母には脚気(かっけ)を患って心配をかけたことをわびた。2人の弟に対しては「母上ニハ充分孝養ヲ尽シナサイ」と求め、「身体ハ充分ニ注意シテ勉学シテ被下(くださ)イ」と結んだ。700字を超す文書に記された日時は41年12月だった。

 終戦後の47年、戦死公報が自宅に届いた。健三さんは米軍との激戦地だったフィリピン・レイテ島で44年10月21日に23歳で亡くなっていた。健三さんの兄栄一郎さんも45年4月に27歳で別の島で戦死した。

 一雄さんは昨年10月、地元寺院で開かれた慰霊祭で初めて決別文を披露した。「地域の人にも戦争の非情さを再認識してもらいたかった。生きたかった伯父の思いを代々受け継ぎ、平和を祈り続けないといけない」

戦後78年がたち、戦争を伝える資料や戦没者の遺品の保存、伝承が難しくなっている。高齢化で失われつつある記録と記憶。府北部で大切に保管されている「モノ」を通じ、平和の尊さを考える。

相根健三さん

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