「おしっこの生温かさと防空壕の水の生ぬるさ、今でも覚えてます」空襲で市街地の7割が焼失 今も爪痕残る故郷の記憶を次の世代へ #戦争の記憶

故郷であった空襲の記憶を伝えようと活動する人たちがいます。その思いを受け止め、地元の小学生が綴った一編の詩。世代を超えてつながる平和への願いを見つめます。

愛媛県宇和島市は、1945年5月10日以降少なくとも9回の空襲に遭い、市街地のおよそ7割が焼失。278人が命を落としたと言われています。

黒田美知子さん(83)は、父親の仕事の都合で日本の統治下だった朝鮮半島で生まれました。宇和島が空襲を受けたのは、この地で暮らし始めた2年後、5歳の時でした。

(宇和島空襲を記録する会・黒田美知子代表)
「山の向こうが真っ赤だったのを覚えてます。屋根に上って見てて親に怒られたんですけどね。子どもの頃ですから不謹慎だけど綺麗だなぁと思ってね。下の方の空襲で焼けてる街が。その中で人が大勢亡くなってるということは、まだ5歳には理解できなかった」

それでも、当時の記憶は鮮明に残っています。

(黒田さん)
「ウーと空襲警報がなるんですよ。“空襲警報発令!”と言ったら消防団の人が“避難!”と言って…」

兄に背負われ、雨水のたまった防空壕に逃げ込んだといいます。

(黒田さん)
「大きくなっても兄が言ってました。“美知子は僕の背中でおしっこした”って。そのおしっこの生温かさと防空壕の水の生ぬるさ、今でも覚えてますよ」

最後の宇和島空襲から7日後に、戦争は終わりました。

(黒田さん)
「夜に明かりをつけて寝られること、空襲警報で怯えなくても良い、当たり前のことが嬉しい幸せな…そういう時代でしたね」

慰霊碑のある和霊公園と和霊神社の間にかかる橋には、戦争の爪痕が残っています。

(黒田さん)
「ここが焼夷弾の痕なんですよね。この川に何人も飛び込んだり亡くなったりね」

黒田さんが代表を務める「宇和島空襲を記録する会」では今年初めて、終戦の日を挟んだ7日間、市内で空襲展を開催。会場には、空襲の悲惨さを伝える紙芝居や、今は亡きメンバーが残してきた記録集、地域の人から寄せられた数々の貴重な資料が並びました。

中には、当時出征する人に、弾除けのお守りとして贈られた千人針も。

(宇和島空襲を記録する会・金田八重子さん)
「みんなの思いもね、一針一針を込めたということでしょうね。“元気で帰ってきてください”と。“元気で帰ってこい”と言えないところがね…」

(来場者)
「こういうのをずっと続けて記憶してほしい。若い人にも、もっと見に来てほしい」
「戦争はどうしても遠い世界のニュースや画面で見ることだと思うんですけど、自分の知ってる地域の人とか、おじいちゃんおばあちゃんとかが喋ってくれると、自分の知ってる所でもあったんやと、自分事に近付くかなと思いますね」

過去の記憶を今につなぐ―

会場には、そんな黒田さんたちの思いを象徴する一編の詩が展示されました。

『昭和の時代 戦争があった 飛行機が飛んで、ミサイルが落ちて 家が焼けて みんな逃げた 防空ごうに入っていても そこへミサイルが落ちてきて 中の人はみんな死んだんだって 「宇和島空襲を記録する会」の おばあちゃんたちに教えてもらったよ』

この詩を書いたのは、宮本稀琉(きりゅう)くん(10)。6月に授業で黒田さんたちの話を聞いた後、担任の先生との連絡帳にこの詩を残しました。

(記者)
「おばあちゃんの話を聞いてどんなことを思った?」
(宇和島市立明倫小学校4年・宮本稀琉くん)
「昔はこんなことがあったんだなと思って、今ではこんなにきれいな所だけど、昔は大変だったんだなって思いました」
(記者)
「ミサイルって書いてるのはニュースでよく見るから?」
(稀琉くん)
「はい」

令和の時代を生きる小学4年生が綴った詩は、こんな一文で締めくくられています。

『戦争のない平和な世界になるといいな ぼくが今できること… それはまず自分がけんかをしないこと』

(稀琉くん)
「ちっちゃいけんかでも大きくなったら戦争は起きると思ったから」

(黒田さん)
「子どもだけじゃなくて大人だってそう考えてほしい、自分がまず何ができるか。小学校の時にはけんかをしない事って考えたけど、中学校や高校、大学生になった時に何ができるかなってことを、稀琉くんだけじゃなくて周りのみんなと考えてほしい」
(稀琉くん)
「はい!」

世代を超えて、平和への願いはつながっていきます。

(黒田さん)
「本当に嬉しいです。変な理屈はいらないです。素直に受け取ってもらうことが未来につながること。力をもらいました。おばあちゃんたち、これからも頑張るからね」

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