中国人学者が出合った緋紅の志野 陶芸家安藤工の世界

名古屋大学院に留学していた時、数年間中国語を教えていた。大学院を卒業後、名古屋を離れ、東京勤務に赴く前、教え子たちが陶芸品を贈ってくれた。美濃焼の名工、安藤工(たくみ)さんが作った志野(美濃焼の一種)の猪口だった。2018年6月、中国広西チワン族自治州欽州で第1回陶芸博覧会が開催された。その時、主催者から日本の陶芸家を紹介してほしいという連絡があり、安藤さんに依頼し、一緒に広西に向かった。長い旅路で志野の陶芸を中心に話を交わした。

安藤さんは日展の特選作品に入選し、日展審査員に選ばれ、輝かしい陶芸の歴史を作った。彼がどのように陶芸家に道を歩んできたか気になった。代々陶芸家の家に生まれた彼は4代目で、当初は陶芸家を志していなかったという。高校時代、初めて愛知県美術館に日展を見に行ったところ、そこで出合った作品を見て、陶磁器に対する概念を完全に覆し、陶磁器に対する認識の幅を広げ、陶器の多様な芸術性を感じいった。自分もこのような作品を作りたいと思いが募り、日展の先生を師にして、陶器と付き合い始めた。

安藤さんは陶磁器の都である愛知県瀬戸市で6年間修業したが、6年目に体調を崩して作陶を続けられなくなった。瀬戸市から多治見家で休養に戻り、何もしていなかったが、偶然のきっかけで父の友人、陶芸家の加藤孝造さん(人間国宝)とミャンマーを旅した。旅の途中、何日か同じ部屋で暮らしていた加藤さんが、“美濃の陶芸家でお生まれで、美濃の陶器を継承して伝えていくのが使命だ”と語りかけた。加藤さんの一言が安藤さんを目覚めさせた。安藤さんはこれまで現代の陶芸を学んできたが、その頃から志野や織部など美濃の茶の湯で使われた桃山陶を創作することを追求すべきだと感じた。

日本の工芸美術には極端な現象があり、例えば金閣寺は輝きを求めているのに対し、銀閣寺は飾り気がなく、同様に日本の陶器は色彩を控えめにしていることが多い。安藤さんが求める艶で俗っぽくない緋色は日本の陶器の中ではあまり見られないようだが、この玉のような光沢がどのように焼成されたのか気になってしかたがない。

彼が今も使っているのは山の斜面に窯を掘った穴窯で、その上に土をかぶせて、シンプルな造りの窯である。しかし,焼き上げは容易ではなく,効率が悪い。効率が悪いので、現代ではこのような窯はあまりない。今は電気でガスを燃やす窯が流行っている。このように熱源は安定しており,効率が良い.効率が低くて穴窯を使い続けるのには理由がある。志野は冷却時に独特の緋色が発生し、穴窯の半分は土に埋められ、冷却が遅いので、自分が表現したい緋色の窯変を得るために穴窯を続けているが、ガス窯ではこの色は焼けない。

安藤さんの作品は国内外で評価され、今年も日本の陶芸家を代表して広西チワン族自治区欽州市の陶興文化芸術祭に招待された。作品は決して安くない。茶碗は40万円以上になる。なぜ、高値が付くかというと、穴窯は1年に2~3回しか焼くことができないという。1つの窯で6昼夜焼き、1500束の赤松の薪を使い、赤松を乾燥させるには時間がかかるので、1年に2~3回しか焼けない。また、穴窯には200点しか納められないし、少し大きい作品を入れると100点程度しか入れられない。すなわち、一度に焼く数も非常に限られている。そしてすべての作品が満足いく結果となるわけではない。完成品は十分の一だけで、価格が高価になるのにも理由がある。

安藤さんは先祖伝来の仙太郎窯の代表で、美濃の製陶伝統の将来性を語った。彼が現在使用している美濃窯は父親が使用しており、時代の変化に伴い製陶も変化している。それは、私たちの生活環境が10年前、20年前よりも著しく変化しており、環境の変化によらず、ひたすら自分の好きな陶器を作るだけでは、社会と乖離してしまうため、現代に合った作品を作っているという。

一例を挙げると、桃山時代の志野茶碗はサイズが大きく、茶道は武士の趣味だが、現在では、茶道をたしなむのは男性より女性が多いため、あまり大きな茶碗ではなく、女性の小さな手でも持つことができることが重要であるという。花瓶も同じように、昔の家には床の間があったが、現在の日本の家庭にはこのような部屋はないことが多く、西洋式の住宅が多いので、焼いた陶器も現代の家庭の部屋に合うと考えている。伝統を堅持しながら、新しい時代の流れにも乗り、これは陶芸家安藤工の世界である。

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