【特集】有名レコーディング・スタジオの歴史と歩み:音楽の歴史を代表する名高いスタジオたち

The Rolling Stones - Photo: Hulton Archive/Getty Images

1969年8月、ザ・ビートルズがアルバム『Abbey Road』のジャケットに使用するため、ロンドンにあるセント・ジョンズ・ウッドの横断歩道を渡る写真を撮ったのは、彼らが音楽界に一大旋風を巻き起こすのに一役買ったこのスタジオを称えてのことだった。しかし、それによってアビイ・ロード・スタジオ自体も世界で最も有名なレコーディング・スタジオのひとつになった。

象徴的なレコーディング・スタジオの名前――たとえばサン・スタジオ、マッスル・ショールズ、モータウン、エレクトリック・レディ、トライデント、サンセットの名前は、そこで数々の傑作を生み出したミュージシャンたちと同じくらい広く知られている。

重要なレコーディング・スタジオは、ミュージシャンたちにとってただの建物、ただの音響設備に過ぎないものではない。ザ・ローリング・ストーンズにはチェス・レコード・スタジオに敬意を表して名付けた曲があり、ソニック・ユースは、彼らの成功に大いに貢献したニューヨークのエコー・キャニオン・スタジオに感謝し、グループの12thアルバムをスタジオ名にちなみ、『Murray Street』と名付けた。 

史上初のレコーディング・スタジオ

レコーディング・スタジオの起源は、蓄音機業の基礎を築いたトーマス・エジソンやアレクサンダー・グラハム・ベルといった19世紀の発明家にまで遡る。第一次世界大戦が起こるまでには、世界中の大都市にレコーディング・スタジオが現れだしていた。その中には1918年にオットー・K・E・ハイネマンがニューヨークに設けたオーケー・レコードの最初のスタジオもある。

その時は、ミュージシャンの演奏や歌はリアルタイムでレコーディングされ、彼らのパフォーマンスが直接マスター・ディスクに記録された。その10年間の大きな転換は、マイクとアンプを電子的にミックスして単一の信号を作る事ができるようになったことであった。音楽産業は発展し続け、ビクター、コロムビアやHMVといったレコード会社が先を争って電子的に録音する技術を利用し、レコードという製品を大量に生産して売るための組織を整えた。

1930年代、レコード会社は映画業界に売るためのサウンドトラックの生産に力を入れていた。しかし、1940年代になると記録媒体としてのテープが増え (サーモプラスチックの登場によってレコーディングの音質はかなり向上した) 、設備と環境の点からレコーディング・スタジオは素晴らしい音楽を創造するためのものだという考えが定着した。

ニューヨークやシカゴ、ハリウッドのスタジオを整備したRCAレコード、デッカ・レコードやコロムビア・レコードといったレコード会社が、スタジオ技術をさらに発展させようと注力し始めたのもこのころである。また戦後には、ハリウッドのラジオ・レコーダーズやニューヨークのゴッサム・レコード、またナッシュビルのザ・バーンのような重要な独立したスタジオが台頭してくる。

ビル・パットナムは現代的なレコーディング・スタジオの創始者であり、先駆的な技術者であった。シカゴのシヴィック・オペラにあった彼のスタジオで使われていた技術 (テープの使用、マルチトラック・レコーディング、リバーブやオーヴァーダビングといった技術の採用) は、現代的なレコーディング・エンジニアを定義するようになった。

映画業界のためにシネラマを開発したハザード・”バズ”・リーヴスは、革命的なステレオ音響とハイファイの発展に大きく関わった。彼はまたノーマン・グランツ (ヴァーヴ・レコードの創設者) と密接に働いていて、あの『Charlie Parker With Strings』を含むジャズ界の重要なレコーディング・セッションにも数多く関わっている。

このパーカーの革新的なアルバムのレコーディングは1949年から1950年にかけて行われたが、この時期はレコーディング産業界の転換期であった。長時間再生が可能で、33回転 (33 1 / 3rpm) 、音溝が細かいことを特徴とするLPレコードが誕生し、今にも主流になろうとしていた。またこのころレコードのプレスの質が向上し、技術者たちは新しいコンデンサー・マイクの配置についての理解を深めていた。

サン・スタジオの誕生

1950年1月3日、アラバマ出身の若いスカウトマンであり、DJであり、ラジオ局の技術者であったサム・フィリップスがテネシー州のユニオン・アベニューにガレージを改装してメンフィス・レコーディング・サービスを開業。フィリップスはアマチュアのシンガーたちを受け入れ、レコーディングをして、そのテープを大きなレコード会社に売ろうとしていた。

彼はすぐにハウリン・ウルフやB.B.キングのようなアーティストを惹きつけ、彼の小さなスタジオはロックン・ロールとリズム&ブルース誕生の地のひとつになった。しかしこの音楽業界を変えたスタジオは質素なものだった。フロント・オフィスの小さな店で、20×30フィートほどのライブ・スペース、小さなコントロール・ルームに備えられた機材は、持ち運びが可能な入力5系統のミキシング・コンソールとアマチュア仕様のテープ・レコーダーといったものだった。

そして開業してから14ヶ月と経たないうちに、フィリップスは金鉱を掘り当てた。それはアイク・ターナーが主導したバンド、ジャッキー・ブレンストン・アンド・ヒズ・デルタ・キャッツによる「Rocket 88」のレコーディングだった。このレコードは一番最初のロックン・ロール・レコードだとみなされている。

1952年、フィリップスは太陽の光線が印象的なロゴをつけた、サン・レコードを創設。それからエルヴィス・プレスリー、ジェリー・リー・ルイス、ロイ・オービソン、カール・パーキンス、ジョニー・キャッシュたちを発掘していった。またフィリップスはレコーディング・ルームの音響効果を最大限に生かす達人であり、サン・レコードの録音の力強さは彼のサウンドに対する優れた耳によるものだろう。

また音響効果としてディレイを効果的に使ったことも革新的であった。サム・フィリップスの息子、ジェリー・フィリップスが語る。

「父はいつも新しいサウンドを発明しようとしていましたた。彼は自身のスタジオを実験室だと考えていたんです」

確かにサン・レコードで作られた音楽は実験に満ちていた。またフィリップスによるエコーの技術は、プレスリーの「Blue Moon Of Kentucky」のようなヒット曲を作る上で非常に役立った。また1956年、サン・スタジオは音楽史上で最も有名なイベントのひとつ、”Million Dollar Quartet”の会場にもなった。プレスリー、パーキンス、ルイスとキャッシュによる伝説的なジャム・セッションだ。

しかしそんなフィリップスも大きな問題を抱えていた。それはサン・レコードが最低限の販売・流通機構しか持っておらず、全国流通の巨大なレコード会社とは張り合えなかったことだ。1956年後期には、プレスリーとの契約が35000ドルでRCAレコードに買収されてしまう。そんな歴史あるサン・スタジオは今は人気の観光地になっており、未だに夜間のレコーディング・セッションを行っている。

「キャピトル・タワーでは、誰もが常以上にいい演奏を披露する」

プレスリーがサン・レコードを去った年は、レコーディング・スタジオのデザインが著しく発展を遂げた年でもあった。キャピトル・レコードのビルであるキャピトル・タワーが竣工され、この13階立てのビルはロサンゼルスで最も象徴的な建物のひとつになった。

ルイス・ナイドルフがデザインしたこの建物は、レコードを積み重ねたような見た目で、27メートルの尖塔は、夜間光を点滅させて「ハリウッド」とモールス信号を打っている。建物内にはマイケル・レッティンガーが開発した最新の音響技術の設備が整っており、ここで初めてレコーディングされたレコード『Frank Sinatra Conducts Tone Poems of Color』でもその技術が用いられている。次の10年に渡って、本当に多くのアーティスト (たとえばボビー・ジェントリー、ペギー・リー、ナット・キング・コール、グレン・キャンベル、キングストン・トリオなど) が生んだヒット曲の数々は、このハリウッド・スタジオでレコーディングされた。

またキャピトル・タワーは”エコー・チェンバー”と呼ばれるコンクリートの地下室によっても有名である。より良いリバーブ・サウンドを得るために、伝説的なギタリストでありサウンド・エンジニアであったレス・ポールによって設計された反響室だ。エコー・チェンバーを使用すると残響音が最大5秒の長さに及ぶ。この技術はビーチ・ボーイズの名曲「Good Vibrations」を作る上での重要な要素であった。音楽プロデューサー、フィル・ラモーンがよく言っていたものだ。「キャピトル・タワーでは、誰もが常以上にいい演奏を披露する」と。

さらにキャピトルは1958年に、テネシー・アーニー・フォードがナレーションを務めたプロモーション映像を発表している。空間内の音響を整えるために、建物の中の3部屋のレコーディング・スタジオに設置された可動式のサウンド・パネルが紹介されており、片面が木で、もう片面がガラス繊維で加工されていることが分かる。また部屋の床は、なるべく雑音を消すためにコンクリートとコルクを混ぜ合わせて作られていることが説明されている。

レコーディング・スタジオは十分に発達したといえるだろう。LA出身のシンガー、ベックは後にこのように述べている。

「このハリウッドの空を切り取っている、塩化ビニールのディスクでできたこの塔は、芸術と商業を、ジャズとロックン・ロールを表わしている。また黄金期と都市の荒廃、そして再生をも表わしているんだ」

完璧なサウンド

1959年、キャピトルがシナトラのアルバムをもう2枚レコーディングしたころ、東海岸沿いのニュージャージー州イングルウッド・クリフに、”ジャズの聖堂”ともいうべきルディ・ヴァン・ゲルダーのスタジオが作られた。音響のため、アメリカ松にラミネート加工を施したアーチと、40フィートの高さのスギ製の天井を持つこの美しいスタジオは、ブルーノート・レコードのアーティストたち (ホレス・シルヴァー、アート・ブレイキー、ジョー・ヘンダーソン、アントニオ・カルロス・ジョビンら) が数々の傑作を作り出した場所でもある。

ヴァン・ゲルダーは非凡なレコーディング・エンジニアであった。彼はニュージャージー州はハッケンサックにあった両親の家のリビング・ルームで、マイルス・デイヴィスとキャノンボール・アダレイの演奏をレコーディングしてその仕事を学んだ。ヴァン・ゲルダーにとって、スタジオ内の環境は録音の出来栄えを左右する最も重要な要素だった。ヴァン・ゲルダーは以下のように語っている。

「スタジオを作るというのは、彼らが演奏する環境を創造することだ。だから私がすべての設備を選び、設置し、管理した。こんな風に言ってもいかもしれない、誰かを月に置きたいと考えたとする。そのとき、その人を月まで連れていくのがまさにエンジニアの仕事だと……。私の目標は、ミュージシャンの思い通りの音を作ることだ」

WMGMのファイン・サウンド・スタジオは、1950年代に素晴らしいジャズ・レコードが作られたもうひとつの場所だ。マーキュリー/エマーシー・レコードのためのアルバムが、カウント・ベイシー、ビリー・ホリデイ、ジョニー・ホッジス、ジェリー・マリガン、マックス・ローチ、クリフォード・ブラウン、ロイ・エルドリッジ、ダイナ・ワシントンといった著名人たちによって制作された。またマイルス・デイヴィス、ギル・エヴァンス、ジェリー・マリガンによるセッションを集めた『Birth Of The Cool (クールの誕生)』もこのスタジオでレコーディングされている。

録音のために設計されたわけではないが、古い教会はその壮麗な音響効果のために、しばしばレコーディング・スタジオとして上手く機能する。たとえばコロムビア・レコードの30thストリート・スタジオは、アルメニア・カトリックの教会を改装したもので、天井の高さが100フィート以上もある。改装した教会の高い天井は、ピュティアン・テンプルでも優れたサウンドを生み出している。

元はピュティアス騎士団の集会場であったこの建物を、40年代初期にデッカ・レコードが借り受けたものだが、ここでルイ・ジョーダン、ビリー・ホリデイやバディ・ホリーがレコーディングしたほか、ビル・ヘイリー・アンド・ヒズ・コメッツの「Rock Around The Clock」もここでレコーディングされている。

1957年にナッシュビルで開業したRCAスタジオBは、すべてのレコーディング・スタジオの内で最も成功したもののひとつだといえるだろう。エヴァリー・ブラザースやプレスリーもレコーディングしたこのスタジオは、同所を象徴する”ナッシュビル・サウンド”でよく知られている。このスタイルは、バック・コーラスやストリングスが特徴的だ。ここでレコーディングされた曲は35,000曲以上もあり、そのうちの1,000曲以上がビルボードのヒット・チャートに記録を残している。

また1950年代後期のこの時期、輸入制限が緩和された。それによってUKのレコード会社が急成長し、なかでもパイ・レコードやフィリップス・レコードはマルチトラック・レコーディングのような革新的な技術を導入したことで、頭角をあらわしていった。

新たな時代の幕開け:楽器として機能する録音スタジオ

簡単に言えば、レコーディング・スタジオの歴史はふたつに分けることができる。1960年代の前か後かだ。1965年から1967年という時期は著しく創造的で、それまでは単にミュージシャンとエンジニアとプロデューサーが働く場所だったレコーディング・スタジオが、この時から芸術の中心地に変わった。テクノロジーが大きな変化を推し進めていたまた別の時期には、プロデューサーの役割も変わった。

マルチトラック・レコーディングは、大いなる実験の機会をスタジオにもたらしたのだ。1960年代、8トラックのレコーディングが普及し、1969年にはトライデント・スタジオを皮切りに16トラックのレコーディングがUKに導入された。それから40年後、今や同時にミックスができる32トラックのデジタル・レコーダーが当たり前になった。

ロンドンのソーホーに拠点を置くトライデントは、UKで初めてドルビー・ノイズ・リダクション・システムを使ったスタジオだ。ジェームス・テイラーのデビュー・アルバム『James Taylor』やローリング・ストーンズの『Let It Bleed』といった後世にも影響を及ぼしたアルバムがノーマン・シェフィールドのスタジオで作られた。

1970年代には、トライデント・スタジオからクイーンの最初の4枚のアルバム、デヴィット・ボウイの『The Rise And Fall Of Ziggy Stardust And The Spiders From Mars』、T・レックスの『Electric Warrior (電気の武者)』、ルー・リードの『Transformer』といった著名なアルバムが生み出された。

シェフィールドはリラックスした雰囲気を好み (彼は、いくつかのレコーディング・スタジオで義務づけられていた白衣の着用をレコーディング・エンジニアたちに禁じた) 、素晴らしい楽器に価値を置いていた。有名な”Trident Piano”は「史上最高のロックン・ロール・ピアノ」と評されるハンドメイドのグランド・ピアノで、19世紀のベヒシュタイン製である。エルトン・ジョンの「Your Song (僕の歌は君の歌)」はこのピアノで演奏された重要な楽曲のひとつである。

アビイ・ロード : ザ・ビートルズのホームグラウンド

英国には数多くの素晴らしいレコーディング・スタジオが存在する。ノッティング・ヒルのサーム・ウェスト (レッド・ツェッペリン、ボブ・マーリー、バンド・エイドらが使用) 、イズリントンのブリタニア・ロウ (ピンク・フロイド、スクィーズ、ジョイ・ディヴィジョンらが使用) 、バーンズのオリンピック・スタジオ (ローリング・ストーンズ、ジミ・ヘンドリックスらが使用) といったスタジオだ。しかしながら歴史的な重要性において、セント・ジョンズ・ウッドに位置するアビイ・ロード・スタジオに優るスタジオはないだろう。

かつてはEMIスタジオと呼ばれていたこのスタジオについて、ポール・マッカートニーは「世界一のスタジオ」と評し、「深みと伝統がある」と説明している。この建物はグラモフォン社に買収されたときに初めて音楽のために使われた。アビイ・ロードはザ・ビートルズの代名詞のようなものであるが、そのほかにも多くの重要な作品がここでレコーディングされている。ピンク・フロイドの『The Dark Side Of The Moon (狂気)』、デュラン・デュランのデビュー・アルバム『Duran Duran』、そして最近ではレディオヘッドやレディー・ガガ、ジェイムス・ブレイク、ワン・リパブリックとエド・シーランらもここでレコーディング・セッションを行っている。

1962年の6月、ジョージ・マーティンと最初のレコーディング・テストのためにアビイ・ロードを訪れたザ・ビートルズは、その設備に驚いた。3室のスタジオは天井が高く、広々としていた (メイン・ホールはオーケストラが入るくらいだった) 。4人は無数のパーカッションが収納された部屋がお気に入りだったようだ。

アビイ・ロードはほかのレコーディング・スタジオとはいろいろな点で違っていた。音の反響を調整するために堅木でできた床に敷かれたインド製の絨毯や、木製の幅広い階段はその一例である。「Yellow Submarine」をレコーディングする際には、プロデューサーのジェフ・エメリックが、潜水艦の中にいるみたいな音を作るためにジョン・レノンたちを反響室の中に入れた。3フィートの高さしかないその部屋の壁に水を垂らすことで、あの音は生まれたという。

ザ・ビートルズは、フィードバックやマイクを使った技巧や逆再生などの革新的な試みによって、いくつもの新天地を切り開いてきた。しかしアビイ・ロードの才能あるサウンド・エンジニアの存在も忘れてはならない。彼らの音楽的なビジョンを実現する手助けをした人で、彼らの成功の鍵のひとつであるといえるだろう。階上にあるコントロール・ルームについて、マッカートニーはそこを「大人たちの住処」と呼んでいた。

またこの時期、ザ・ビートルズはアルバムをゆったりとしたペースで作るだけの時間があった。EMIがスタジオが所有していたために、彼らはレコーディングのために数ヶ月与えられたこともあったのだ。1966年11月から1967年4月まで行われていた『Sgt Pepper’s Lonely Hearts Club Band』のレコーディング・セッションには、およそ700時間が費やされた。制作費は当時の金額で25,000ポンド。今の価値に換算するとおよそ50万ポンド(約9,259万円)にも相当する。

スタジオについてプロデューサーのジョージ・マーティンが過去こう語っていた。

「 (数日間スタジオを借りるという形ではなく) アルバムが完成するまでレコーディングを続けるっていうアイディアは、画期的な発想だった。そしてそれはまた、スタジオを楽器として再定義するきっかけにもなった」

またマーティンはこんな風にも話している。

「私がこの仕事を始めたとき、すべてのレコーディング・エンジニアにとっての理想は、可能な限りそこで鳴っている音に近いものを記録することであり、いわば完全に正確な写真を撮ることだった。けれども、今ではレコーディング・スタジオのあり方はまったく変わってしまった。優れた写真を撮るのではなく、絵を描くことのできる場所になったからだ。オーヴァーダビングという手法を活用したり、テンポを変化させたりすることで、音を使って自由に絵を描くことができるんだ」

UKのミュージシャンたちは、それでもアメリカのレコーディング・スタジオを意識していた。マッカートニーは頻繁にアビイ・ロードのエンジニアたちに「アメリカのサウンド」を作るように頼んでいて、モータウンのプロデューサーたちは、イギリスのスタジオよりももっと豊かなベース・サウンドを獲得していると主張していた。 

ヒッツヴィルUSA

ベリー・ゴーディが自信を失ったと言われたことはない。1959年、写真屋のオフィスだった彼の家とガレージをスタジオに変えて、”ヒッツヴィルUSA”という看板を掲げた。ゴーディのレコート・レーベル、モータウンは大きな成功を収め、7年と経たないうちに、デトロイトのウェスト・グランド・ブルバードにあるスタジオの近隣の建物をさらに7件所有するまでになった。

ゴーディには成功の雛形があった。毎朝、モータウンは”クオリティ・コントロール”というミーティングを行い (そこでは正直な意見が尊重されていた) 、そのミーティングを除いた22時間を使って何をレコーディングするか決めていた。初めのうちは、彼らの設備は必要最小限のものしかなかった。3トラックしかなく、ひとつはドラムとベースに、ふたつ目はそのほかの楽器に、そしてもうひとつはヴォーカルに使ったのだ。

しかし、そのやり方は大成功となり、ミラクルズ、シュプリームス、マーヴィン・ゲイ、テンプテーションズ、スティーヴィー・ワンダーといったアーティストたちが次々にヒットした。モータウンは音楽業界で最も成功したアフリカ系アメリカ人のレーベルになったのだ。

チェス・レコードとエレクトリック・ブルースのサウンド

メンフィスのサン・レコードや、デトロイトのモータウン・レコードと同様、チェス・レコードも小さな施設を使い倒した。チェスは、オフィスと流通のための設備が付いた小さなレコーディング・スタジオとして始まった。シカゴにいくつかの施設を持っているが、最も重要なのはサウス・ミシガン・アヴェニュー2120番地にあるものだろう。この住所は、ローリング・ストーンズがそのまま曲名「2120 South Michigan Avenue」に用いたことで不滅のものになった (今その場所にはウィリー・ディクソンのブルース・ヘヴン財団の本部が置かれている) 。

チャック・ベリー、ハウリン・ウルフ、マディ・ウォーターズやエタ・ジェイムズによる多くの忘れられないレコードが生まれたこのスタジオに、1964年6月、ストーンズは北米ツアーを中止して訪れている。刺激的な環境で設備も素晴らしかったが、ほかとの大きな違いは有能なプロデューサー陣とロン・マロのようなエンジニアたちにあるとストーンズは信じていた。ドラマーのチャーリー・ワッツはこう述べている。

「シカゴのチェスほど音楽を効果的にレコーディングできるスタジオは、どこを探してもないと思う。彼らのメソッドは、まったく違っているんだ」

ついでに言えば、ザ・ローリング・ストーンズは彼らの移動式スタジオ’、’モービル・ユニット”によって、レコーディングの歴史に独特の影響を及ぼした。1960年代後期、ミック・ジャガーが扇動して、この車輪のついたスタジオ (DAF製) には最新の16トラックのレコーダーが搭載されていた。

『Exile On Main St (メイン・ストリートのならず者) 』の中のいくつかの曲がそこでレコーディングされたが、ほかにもディープ・パープルの「Smoke On The Water」やボブ・マーリーの「No Woman, No Cry」のレコーディングなどにも使われた。ストーンズがお手本にしたのは、20年代にはレコーディング機材をアメリカの都市中に運んでいたオーケー・レコードの貨物自動車である。

ドイツ・ハンザの“Heroes”

多くの最も有名なレコーディング・スタジオはアメリカとイギリスに集中しているが、必ずしもそれがすべてというわけではなく、たとえばカナダにはスタジオ2、オーストラリアにはスタジオ301がある。ただドイツのハンザ・スタジオは、その歴史的重要性において、頭ひとつ抜きん出ているといえるだろう。

2012年のロンドンオリンピックで、イギリスのアスリートたちがオープニング・セレモニーに入場する際、デヴィッド・ボウイの「Heroes」がかかった。この曲は1977年、ベルリンの壁とその見張り塔の近くのハンザ・スタジオで作曲、レコーディングされたものだ。この荒れ果てた都市の様子は、コカイン中毒と家庭の問題を対処するためにドイツに来ていたボウイの創作意欲を再燃させた。「文字通り生まれ変わったような気分だった」、後に彼はこう認めている

1960年代に初めてアリオラ・レコードがレコーディング・スタジオとして使ったこともあるこの複合ビルは、後にマイゼル兄弟 (ペーター、トーマス) が買収。1976年、彼らの会社マイゼル・ミュージック・パブリッシャーが所有権を買い取り、ここにレコーディング機材を取り揃えた。1920年代にはクラシック・コンサートが催され、その後にはナチス親衛隊の集会所にも使われたことがあるメイン・ホールを「スタジオ2」として改装し、また戦争中の爆撃の跡が残っていた部屋を修復して、モダンな小さいレコーディング・スタジオにした。

それから20年に渡って、ハンザのダークなサウンドを利用した名高いアルバムが数多く作られ、それによってこのスタジオは伝説的ともいえる地位を獲得するに至った。ボウイはもちろん、イギー・ポップ、R.E.Mに代表されるロック・スターたちがアルバムを制作するために世界中から集まったのだ。

ハンザ・レコードに所属していたボニーMはここで「Rivers Of Babylon」や「Brown Girl In The Ring」といったミリオン・ヒット曲をレコーディングしている。また、高い評価を受けたU2のアルバム『Achtung Baby』がレコーディングされたのもこのスタジオだった。

フラッドの活動名で知られるマーク・エリスは、後にU2と仕事をするようになるが、元々はハンザのサウンド・エンジニアであった。フラッドは、広々とした部屋と、20世紀初期にダンス場として使われていたヘリンボーンのフロアリングがあるこのスタジオを「ギターやドラム、シンセサイザーと同じく楽器である」と述べている。

デペッシュ・モードのプロデューサー、ガレス・ジョーンズは彼らのアルバム『Black Celebration』のサウンドについて、スタジオ間の階段に上から下へケーブルを走らせて面白いリバーブとディレイの効果を生み出したと回想している。「私たちはとても面白い、とてもノイジーなやり方で建物中に音を響かせた」。

ほかにも、たとえばスージー・アンド・ザ・バンシーズの『Tinderbox』といった素晴らしいアルバムがハンザでレコーディングされているが、デヴィッド・ボウイのベルリン三部作『Low』『Heroes』『Lodger』ほど影響力の大きいものはないだろう。これらのアルバムは1977年から1979年の間にレコーディングされた。

ボウイにもインスピレーションを与えたのだが、このスタジオには何か、暗くて世間から見放されたような雰囲気があった。彼のプロデューサー、トニー・ヴィスコンティは、兵士の見張りの影がちらつく中で音楽を作ったことを思い出して言う。

「午後にはいつも、私はミキシング・デスクに向かっていた。そこからはロシアの赤軍と有刺鉄線が見えました。彼らはステン短機関銃を肩にかけ、双眼鏡で私たちを見張っていた。また私はベルリンの壁のそばに地雷が埋められていることも知っていた。あの環境はとても刺激的だった」

奇妙な環境に身を置くと、思いがけなくインスピレーションが舞い降りる瞬間があるものだ。ロバート・フリップのギター・リフが建物中に響き渡っている中で、ボウイは必死に「Heroes」の歌詞を考えていた。窓の外を眺めていたその時、彼は「壁のそばで」ヴィスコンティとバック・シンガーの一人がキスをしているところを見た。それがこの曲の歌詞のヒントになっている。

1982年、ボウイがEP『Baal』をレコーディングするためにハンザに戻ってくるまでに、スタジオは新しい機材への投資を始めていた。今の価値にしておよそ250万ポンドの費用がかけられたコンソール、SSL4000Eは、その人目を引く青さから”ハンザ・ブルー”のニックネームで親しまれており、今までに作られた最高のレコーディング機器のひとつであると考えられている。

1980年代にはニック・ケイヴ、マリリオン、ザ・サイケデリック・ファーズがハンザを訪れた。さらに21世紀になっても、KTタンストールやマニック・ストリート・プリーチャーズといった優れたアーティストたちが訪れるスタジオであり続けている。

マッスル・ショールズのサザン・ソウル

ハンザでボウイと共に働いていたこともあるブライアン・イーノは、かつてこう言った。

「すべてのスタジオのドアに、『このスタジオは楽器だ』とあったなら、レコーディングに対するアプローチはまったく変わってくるだろう」

この精神はハンザと同じように、マッスル・ショールズ・サウンド・スタジオについても当てはまる。アラバマ州シェフィールドにあったこのスタジオは、マッスル・ショールズ・リズム・セクション (ザ・スワンパーズの名前で知られる) のメンバー4人が、フェイム・スタジオを離れたあとで開業した。

棺の陳列に使われていたコンクリートの建物を改装したこのスタジオには、最低限の機材しか設備されていなかった。にもかかわらず、スワンパーズがこの新しいスタジオに持ち込んだ独特のサウンドは、世界のトップ・ミュージシャンたち (ポール・サイモン、ローリング・ストーンズからウィリー・ネルソンにいたるまで) を惹きつけた。また、レゲエ・ミュージシャンたちが住み込んでいたことでも有名なスタジオ・ワン (ジャマイカ、キングストンにある) のようなサウンドだとも考えられていた。

レコーディング・スタジオがある場所には、豊かな歴史があることが多い。A&Mレコードが所有するハリウッドのスタジオは、1917年に映画スタジオとしてチャールズ・チャップリンが建てたものである。フライング・ブリトー・ブラザーズやカーペンターズ、ジョニ・ミッチェルが1960年代から1970年代にここでレコーディングした。

しかし、華やかな過去を持たない場所でも素晴らしい音楽を作ることはできる。レザーヘッドの静かな町にあるサリー・サウンド・スタジオは村の役場を改装して作ったものだが、1970年代後期から1980年代前期にはここでポリスが最初の3枚のアルバムをレコーディングした。今はスポーツ用品店になっている。

1970年代に、ミネアポリスのレコーディング・スタジオ、サウンド80が、ボブ・ディラン (『Blood On The Tracks (血の轍)』) 、キャット・スティーヴンス、プリンスやデイヴ・ブルーベックといった、その時代の最も優れたミュージシャンたちを惹きつけた。

1978年に、セントポール室内管弦楽団が最初のデジタル・レコーディングによる作品のひとつを発表した。音楽がデジタル・レコーダーに取り込まれることで、アナログ・レコーディングの際の音のゆれをいくらか取り除くことができ、サウンド80のエンジニアたちはこの新しい技術を大いに喜んだ。サウンド80・スタジオがあった場所に、今はオーフィールド研究所があり、この研究施設には無響室があって、「地球上で最も静かな場所」としてギネス記録に載っている。

マルチトラック・レコーディングが当たり前になった現代、ミュージシャンたちは、それまでにも増して長い時間をレコーディング・スタジオで過ごすようになった。その結果、宿泊できるスタジオが都市から離れた場所に数多く設立された。1965年にウェールズ、モンマスに建てられたロックフィールド・スタジオは世界で最も古い宿泊できるスタジオだと伝えられており、そこでクイーンの「Bohemian Rhapsody」のレコーディングが行われている。

ロックフィールドの建物は荒れ果てた納屋からできていたが、ミュージシャンたちは硬い石でできたスタジオを愛し、デイヴ・エドモンズ、ブラック・サバス、モーターヘッド、カーリーン・カーター、アダム&ジ・アンツ、ザ・ポーグス、オアシス (「Wonderwall」はこのスタジオで生まれた) といったさまざまなアーティストやグループが、この施設を使った。1990年代には、人里離れていることを気に入って、コールドプレイがこのスタジオを選んだ。

ホノルルのアイランド・サウンド・スタジオには、モンマスの由緒あるモノウ川のような人を喜ばせるものはないかもしれないが、ドクター・ドレーやカニエ・ウェストといったミュージシャンたちがこのスタジオを訪れた。そこから5分くらいの距離にシュノーケリングもできる絵に描いたようなハナウマ湾がある。

ポピュラー・ミュージックの歴史は象徴的なレコーディング・スタジオの話で満ちている。スタックス・スタジオからゴールド・スター・スタジオ (ここでフィル・スペクターが”ウォール・オブ・サウンド”を作り上げた) 、ロサンゼルスのサンセット・サウンド・レコーダーズからニューヨークのコロムビア・スタジオ (ボブ・ディランの1stアルバム『Bob Dylan』はここで生まれた) 、ヘッドリィ・グランジからエレクトリック・レディ・スタジオ (ジミ・ヘンドリックスがその早すぎる死を迎える数週間前にオープンさせたレコーディング・スタジオで、現在も営業している) 。それらのレコーディング・スタジオの多くがミュージアムや観光地になっていることは、なんら不思議なことではない。

デジタル時代のレコーディング・スタジオ

今日の音楽業界は、1世紀前にオーケー・レコードで働いていた人たちからは想像もできないだろう。しかし自主制作の最も小さいものから、1億ドルかけた南アフリカのBOPスタジオまで、現在のすべてのレコーディング・スタジオに共通しているのは、ソフトウェアによって根本的に変わったことだ。

デジタル時代を生き残るために求められるのは、適応能力だ。ユニバーサル ミュージックのアーティストたちは、ロンドンにある最新のスタジオを利用することができる。プロ・ツールスHD、ネイティブ12、ロジック・プロ・テン、ノイマンU87、アヴァロン737・バルブ・ヴォーカル・チェインといった最新の機材が揃えられており、古き良きアップライト・アコースティック・ピアノもある。過去にユニバーサルのスタジオで制作したアーティストの中には、アデル、カイリー・ミノーグ、リサ・マリー・プレスリーがいる。

レコーディングに必要な予算は下がり、コンピューターやオーディオ・ソフトウェアはさらに安く、小さく、そして実用的になった。その影響で、家の中にレコーディング・スタジオを作り、すべて自分ひとりで音源を制作するミュージシャンたちがあらわれだした。アイルランドにあるウインドミル・レーン・スタジオのスタジオ・マネージャー、ナイル・マクモナグル曰く

「ノートパソコンがあれば、これまでにビートルズやクイーンがアビイ・ロードやあらゆる場所でレコーディングしたものよりももっと質のよいものが録音できる。レコーディング全体の水準が上がることだろう」

レコードを作ろうという人々の衝動は新しいものではない。1950年代には、何千人という人が小さな電話ボックスのようなブースに行って、ボイス・オー・グラフを使って彼らの声を直接アナログ盤に記録したものだ。

最高のレコーディング・スタジオとそのほかのスタジオが決定的に違っているのは、それらが特有のサウンドを持っていたということだ。そしてそれは素晴らしい音楽を作る上で絶対に欠かせないものであった。またアナログ時代の制限は、あらゆる熱心な創造力を掻き立てたものである。1950年代にレコーディングされたジャズのいくつかは、歴史上で最も優れた音楽のひとつだろう。エンジニアであり、『The Great British Recording Studios (英国レコーディング・スタジオのすべて) 』の著者であるハワード・マッセイは、以下のように述べている。

「現在では、プロフェッショナルなスタジオでレコーティングする必要はなくなったと思われているようだが、それは見当違いだ。歴史上、自らを上手くプロデュースすることができて、自分の作品を客観的に評価し得たアーティストは数えるほどしか存在しないからだ。」

多くのスタジオがその看板を下ろしていることは事実だ。たとえばフィル・コリンズやパルプがレコーディングしたこともあるハマースミスのタウンハウス・スタジオは、売却されて今はそこに誰かの贅沢なビルが建っている。だが片手で持てる機器だけで音楽が作れるような未来にはならないだろう。2017年のアメリカの国勢調査局の発表によると、アメリカには1700の活動しているレコーディング・スタジオがあり、その内の336個がロサンゼルスにある。

その歴史の中で最も大きな変革が行われ、今はふたつの新しいスタジオと”ミックス・ステージ” (映画音楽のポストプロダクションを行う施設) を所有しているアビイ・ロード・スタジオは、2018年3月にミュージック・プロデューサー・ギルドの名誉ある賞、”Studio Of The Year Award’を受賞した。ケイト・ブッシュはこのビートルズのホームグラウンドを「魔法のかかった場所」と表現している。できることなら、この先、新たな黄金期を迎えてほしいものだ。

Written By Martin Chilton

© ユニバーサル ミュージック合同会社