日本の人に「観光したことのある韓国の街は?」と聞いたら、ほとんどの人が首都ソウルと答えるだろう。
次いで釜山、済州。世代によっては中学高校の修学旅行で慶州に行っている人もけっこういそうだ。
その次となると、一時期、ソウルから無料シャトルバスが運行されていた全州や、ブロガーたちの地道な広報活動で注目された大邱だろうか。
この6つの地域と比べると、観光資源は豊かなのに行ったことのある人が少なそうなのが安東だ。
【全画像】古きよき韓国に出合える田舎町、安東(アンドン)の魅力
儒教文化のゆりかご、両班(朝鮮王朝時代の支配階級)文化の故郷、仮面劇などの民俗文化など、お堅いイメージがつきまとう安東だが、じつはふらっと旅しても楽しめる街だ。
先日、久しぶりに訪れたので、その魅力をお伝えしよう。
二つの安東駅
ソウルの清凉里駅を出た列車は、楊平、堤川、丹陽などを抜け、地図上では右斜め下に南下し、約2時間で慶尚北道の中央寄りにある安東駅に到着した。
駅舎は2020年、安東市郊外に建てられたので新しい。ロビーに流れる歌は2012年に大ヒットした「安東駅で」という演歌だ。雪の夜、現れない恋人を安東駅で待ち侘びる気持ちを唄った歌で、安東の認知度アップに貢献した。
歌詞の中の駅は郊外にある今の安東駅舎ではなく旧市街にあった安洞駅舎だ。
1931年から90年以上、安東の玄関口としての役割を果たしたが、今は文化センターとして使われている。
線路は撤去されたが、プラットホームはそのまま残されている。
旧市場は安東チムタク(鶏肉と野菜の甘辛炒め)の発祥地
安東市内には旧市場と新市場、二つの市場がある。旧市場には1970年代から、生きている鶏やトンタク(鶏の丸揚げ)とマッコリなどを売っていたトンタク通りがあった。
そこで生まれたのが安東チムタクという料理だ。鶏肉をジャガイモやニンジンなどの野菜、春雨といっしょに甘辛く煮た食べ物である。
2000年頃、安東のローカルフードだったチムタクが全国的なブームになり、ソウルにも多くの専門店ができた。久しぶりに本場で食べてみよう。
平日の午後、市場は閑散としている。ブームは去ったとはいえ、グルメ番組出演を謳ったポスターを競うように貼った専門店がずらりと並んでいる。
そのなかから、1985年創業と書かれた店「元祖安東チムタク」に入った。創業当時は小さかった息子が恰幅のよいおじさんになり、母の後を継いでいる。タレはソウルにあるチェーン店より甘くなく、素朴な印象だ。それでもしっかり辛く、ビールが進む。
サイドメニューのガーリックチキンも頼んでみた。他の地域では揚げる段階でニンニクを使うことが多いが、ここでは揚がったチキンの上に刻んだ生ニンニクがたっぷりかけられて出てくる。
ニンニク自体にまろやかな甘さがあるからできることだ。匂いなど気にせずニンニクをもりもり食べられるのが我が国の食の魅力である。
安興洞の路地を歩く
旧市場を出て新市場に向かう。韓国最長の河川・洛東江沿い、安興洞にある市場だ。都会ではなかなか見られない、色あせた昔ながらの建物が連なっている。
路地に分け入ると、低いスレート屋根の家と、瓦を載せた韓屋(伝統家屋)が狭い道を挟んで向き合っている。
積年の跡を覆うように青や黄のペンキで塗られた壁と塀。そして青や緑の鉄製大門。灰色のセメントとのコントラストが鮮明だ。
この辺りには屋根の上に赤い旗を掲げた家が目立つ。
「方位」「金運」「結婚運」「愛情運」「相性」「凶日」などの文句が書かれた看板が目につく。
巫女(ムーダン)や占い師たちの自宅兼店だ。
新市場でタコを買う
新市場は常設市場だが、2と7がつく日には五日市が立つ。
全国の酒場を巡り、2007年に出した『マッコルリの旅』という本のなかで、箸で茶碗を叩きながら歌い踊っていた市場商人の飲み会に混ぜてもらった場所でもある。
市場の路地には、「つまみ一切」という今ではあまり使われない言葉が書かれた小さな酒場兼食堂が並んでいる。
儒教文化が発達した安東は祭祀(法事)が多いことで有名だ。そのときの膳に欠かせないのがムノ(タコ)。
ムノは漢字で文魚と書くため、文を尊重する安東の両班に好まれた。
タンパク質・ビタミンB、カルシウム、不飽和脂肪酸を豊富に含むため、夏バテからの回復を助けるといわれている食材だ。
市場の中には大きな釜で茹でたタコを売る店が多い。店のおばさんに声をかけられたので試食してみる。
甘味がある。歯ごたえもいい。おばさんの気持ちに応えて、今夜の酒のつまみに切り身を1パック買った。
タコとともに、ドンベギと呼ばれるサメ肉も祭祀の膳に必ず上がる。
他の地域ではあまりなじみのない食材だ。
この市場にはクッパ通りがあり、赤や黄の派手な看板が鮮烈だ。堂々と補身湯(犬肉スープ)の看板を掲げる店もある。
ソウルでは1988年のオリンピックの前、外国人の目を気にして補身湯の店の多くが路地裏に移転させられたが、我が国の伝統的な食文化である。
五日市の日は、道端で野菜、果物、魚、干物などを売るおばさんたちと買い物客でごった返す。
韓国の田舎町に行くときは、事前に五日市の日を調べて出かけると、昔ながらの市場風景に出合えるだろう。
昔ながらのマッコリ酒場を17年ぶりに再訪
日が落ちた安東旧市街に、淡い光を放っている韓式居酒屋があった。
前述の『マッコルリの旅』の取材で2006年に訪れた「良宮酒幕」だ。酒幕という言葉に惹かれて入ったと記憶している。
酒幕とは日本風にいえば峠の茶屋のような酒場で、かつては宿も兼ねていた。
古い韓屋を使ったこのデポチプ(マッコルリ酒場)。かつて物資が不足していた時代、壁に新聞紙を貼ったものだが、それを意識してあえて新聞紙を貼って雰囲気を出している。
(中略)先ほどの新市場での宴のことを話すと、女将は「私も歌が好きなのよ」と言った。そこまで言うなら、一曲お願いしなければ。
韓国歌謡の女王イ・ミジャの『椿姫』。のびやかな高音の女将の歌がまたマッコルリを誘う
『マッコルリの旅』の取材から17年。取材した店の多くが女将の高齢化で廃業している。
「良宮酒幕」は移転して姿こそ変わったが、旧市街の片隅に依然として光を灯している。なにより女将が現役なのがうれしかった。
メニューは焼きサバ、ペチュジョン、トトリムクなどマッコリに合うものばかりだ。
女将が丹精した手料理の数々は17年前と変わらなかった。そして、その歌声にはさらに年輪が感じられた。
数え切れないほどの夜 胸を切り裂く痛みに耐え
どんなに泣いたか椿娘 恋しさに胸焦がし 泣き疲れ
霧の月映橋
夜、ほろ酔いで散歩するなら、安東ダムの近くにある月映橋という歩道橋がおすすめだ。
長さ387mの国内最長の歩道橋で、橋の真ん中に月影亭というあずまやがある。そこに座って風光を愛でる。
大きな川とダムをいだく安東は、霧がかかる日数が全国でもっとも多い地域だ。霧が立ち込めた月映橋の夜景は、まるで水墨画のよう。
霧のシーンが印象的だった映画『別れる決心』(パク・ヘイル主演、パク・チャヌク監督)を思い出す。
両班の古宅で美酒に酔う
安東には河回村(実際に人が住む民俗村)をはじめ伝統家屋の宿が多い。
私が泊った聾巖宗宅は1370年に建てられた韓屋だ。有名な陶山書院から洛東江を北上した川沿いにある。朝鮮王朝時代の文学者・聾巖李賢輔(1467~1555)が生まれ育ったところで、李賢輔没後もその子孫が現在まで暮らしている。
安東は「奉祭祀接賓客」(祭祀を行い、客をもてなす)という言葉を大事にしている街だ。韓国でもてなしといったら欠かせないのが酒。
聾巖宗宅には代々受け継がれる酒があり、宿泊客はそれを試飲することができる。
酒の名は「一葉扁舟」。川と山に囲まれたこの地にふさわしい命名だ。
宿のオンドルで昼間買ったタコを肴に乾杯する。熟成された酒からは桃や梨のような香りがして、そのあとの心地よい眠りが約束される。
翌朝、背山臨水の地に建つ伝統家屋で目覚めると、二日酔いもなく快適だった。
一度、ソウルや釜山以外の地方を旅したいと思っている人は、ぜひ安東の韓屋ステイを候補にしてほしい。
(mimot.(ミモット)/ チョン・ウンスク)