「戦犯」として処刑された朝鮮人の日本陸軍中将がいた 歴史に翻弄された人生

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日本の特攻隊員として死んだ朝鮮人がいた。また、朝鮮人でありながら帝国陸軍の中将まで上りつめ、戦犯として処刑された人もいた。「歴史に翻弄された人生」を、RKB毎日放送の神戸金史(かんべ・かねぶみ)解説委員長がRKBラジオ『田畑竜介 Grooooow Up』で語った。

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戦後の時代を区分してみると

僕(神戸)が生まれたのは1967(昭和42)年1月。「戦争ははるか昔のこと」と思って育ったのですが、振り返ってみると終戦からたった22年後です。31年続いた「平成」より短いのです。

昭和以降を大くくりに、僕の考えで区切ってみます。

__(1)「戦争期」~昭和20年(1945年)敗戦まで=19年間
(2)「成長期」~昭和45年(1970年)大阪万博まで=25年間
(3)「爛熟期」~平成2年(1990年)バブル崩壊まで=20年間
(4)「停滞期」~平成23年(2011年)東日本大震災まで=21年間
(5)「??期」大震災以降__

バブルが崩壊するまでの「爛熟期」に、私は青春時代を過ごしています。大震災以降をどう名付けていくか、は今後決まってくると思います。「新たな飛躍期」となるのか、あるいは「新しい戦前」となるのでしょうか。

世代で違う歴史観

赤ちゃんから成人を迎えるくらいの時間が、「世代の区切り」に当たっている感じがします。これは、歴史観に大きな違いを生みます。例えば「平和」という言葉は「戦争期」には、武力で制覇してなるもの、目指すものでした。「戦争をしない」という意味の「平和」ではないということです。

ところが、敗戦=大日本帝国の滅亡を迎えた昭和20年以降、戦争をしない「平和」が「何よりも大事な価値観」と捉える方が多かったはずです。私が育った高度経済成長以降の「爛熟期」には「当たり前のこと」として捉えられていました。

しかし、その後は「平和、平和と言うなんて、頭の中が“お花畑”だね」なんて言う人も出てきました。「その世代みんながみんな同じだ」というわけではなく、偏った「世代論」になってしまうといけませんが「そういう風潮が一定数いた」という意味です。

日本に併合された朝鮮で育った人々

ここで考えてみたいのが、朝鮮のことです。1910年に日本に併合され、大日本帝国が滅亡する1945年までの36年間は「日帝三六年」と呼ばれています。ひと世代を超えるくらいの長さがあるのです。

日露戦争が終わった1905年に生まれた人がいたとします。1910年に日本に併合されるので、5歳に「日本人」になり、その後は日本語教育で育っていきます。青春期を「日本人」として過ごした後、ちょうど40歳で日本統治が終わる。すごく長い時間です。家庭も、子供も持っているでしょう。

このあと朝鮮半島は独立を回復するわけですが、もちろん、みんながみんな抗日レジスタンスとなって独立を勝ち取ったわけではなく、多くの人はその体制の下でどうやって生きるかを考えていました。時には日本軍に協力してでも「お金をちゃんと稼いでいきたい」と考えるのは普通ですよね。

当時の日本だって、戦争に反対する人はいたけれど、多くの人は何も言わずに世の中を見て、時流に合わせていたのでしょう。

特攻隊員となって死んだ朝鮮人

戦後になって、「戦争前」をどう考えるかが大きな問題になっていきます。日本に併合された当時の朝鮮の人たちは、日本の軍隊に徴用されたり、志願したりしました。軍人・軍属などを合わせると、26万人以上いたと言われています。中には、特攻隊で死んだ人もいます。

朝鮮人なのに、なぜ特攻隊で死ぬのか――。書き残された記録を見てみると、兄から「特攻に行くな」と説得された弟は、「自分は、朝鮮を代表している。逃げたりしたら、祖国が嘲われる。多くの同胞が、一層、屈辱に耐えねばならなくなる」(金尚弼、日本名「結城尚弼=しょうひつ」中尉)。

またある人は「朝鮮人の、肝っ玉をみせてやる」と言って特攻隊に行って突っ込んでいったという記録が残っています(朴東薫、日本名「大河正明」)。

こういった方々は戦後、「裏切り者扱い」されていきました。その時代に生き、一生懸命に選択をした人たちを、次の時代が簡単に断罪してしまう。これが「歴史の残酷さ」だと思っています。

その時はわからなくても、後から分かってくるということもあります。私たちも、後世からどんなふうに言われるのか、予想することは非常に難しいでしょう。だから、「よかった」「悪かった」という話ではなくて、そういう状況の中で生きた人々がいた、ということに思いを馳せてみたいと思います。

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日本陸軍に“取り残された”朝鮮留学生

あえて“朝鮮系日本人”と言いましょう。彼らに日本の陸軍士官学校が門戸を開いたのは、日韓併合から18年後でした(李王家や特別な王族を除く)。つまり、「生まれた時から法的に日本国民だった人たち」です。

その世代に、評論家の山本七平さん(1921年~1991年)が、インタビューしています。「日本人を見返してやろう」という意識がすごく強かったと言います。

ところで、その人たちの前の世代――。朝鮮がまだ独立を保っていた時代に、日本陸軍は朝鮮の陸軍武官学校から留学生を迎えていました。その中に、洪思翊(日本語読みは「こう・しよく」)という方がいます。

1889年に朝鮮に生まれていて、日清戦争(1894年)を経て、日露戦争(1904年)では満15歳。18歳で大韓帝国の陸軍武官学校に入学しました。朝鮮人として育ち、20歳で日本陸軍中央幼年学校への留学を命じられました。

「当時の日本は、一貫して韓国を独立国であると主張し、日清戦争の後は韓国を軍事的に強化して自己の同盟国にするつもりがあったらしく、1896年(明治29、11期) から急に留学生を受け入れ、1909年(明治42)までに合計63名が来日しているが、その翌年には日韓併合を強行してこれを打ち切っている」(山本七平著『洪思翊中将の処刑』上巻76ページ、ちくま文庫、絶版)

ところが、翌1910年に韓国が併合され、朝鮮人は“朝鮮系日本人”となるわけです。当然ですが、留学制度は消滅。その後18年間は、朝鮮人が陸軍士官学校に入ることはなくなりました。独立国としての最後の世代、日本陸軍の中に朝鮮系の兵隊が取り残された形です。

ただ一人の“朝鮮系”日本陸軍中将に

洪思翊さんは非常に温和で、人間的な魅力にあふれていたことは、当時の日本の軍人が口をそろえて言っています。陸軍士官学校に進み、参謀を養成する陸軍大学校を卒業しました。

陸大に入学すると、将来は「閣下」と呼ばれる立場になります。軍人を希望する全ての少年たちが熱烈に志望する「超エリートコース」に乗り、“朝鮮系日本人”としては唯一の中将となりました。

しかし、朝鮮人の誇りはずっと持ち続けていたそうです。「創氏改名」といって、朝鮮現地では日本名に変えさせていましたが、洪さんは変えませんでした。朝鮮名のまま、中将になっていったのです。武官として立派な態度を取っていたことから、誰もそのことについて口を出せなかった、という証言があります(洪中将の発音は韓国式で、言葉を聞けば誰でも朝鮮人だとわかったそうです)。

「公的に(神戸注:差別は)全然なかったと言いうるだろうか。必ずしもそうは言えない。というのは韓国系将校の連隊長は一人もいないからである。(中略)終戦までに大佐・中佐以上まで行った者が、二十六、二十七期合わせて十名いるのに、一人の連隊長も出ていない。国善氏によると洪中将も一度は連隊長を経験しておきたいと強く希望し、その希望を申し出たはずなのに、ついに連隊長は経験しなかった。理由は明らかでない。が、天皇の象徴である軍旗を韓国系将校にわたすことに、何らかの抵抗感があったのではないかと私は推定している」(上巻52ページ)

長男(洪国善氏)が「差別を受けることに納得がいかない。なぜ自分たちはこういう扱いを受けるのか」と言った時に、洪中将はこう語ったと言います。

「アイルランド人はイギリスで、どのような扱いをうけても、決してアイルランド人であることを隠さない。そして名乗るときは必ずはっきりと「私はアイルランド人のだれだれです」と言う。おまえもこの通りにして、どんなときでも必ず『私は朝鮮人の洪国善です』とはっきり言い、決してこの『朝鮮人の』を略してはいけない」(上巻24ページ)

日本陸軍士官学校の同期生に、池大亨(チ・デヒョン)という人がいました。脱走して、中国で日本軍と戦うレジスタンス部隊を組織して、独立運動を戦いました。洪さんはこっそりと、この親友の家族の困窮を救うためにカンパを送っていました。

魂としての朝鮮人の誇りを持ちつつも、現実社会で自分が選んだ「日本陸軍の最高幹部」という立場で暮らしていたわけです。日本で暮らす朝鮮人の人たち、軍で働く人たちのことを考えながら、リーダーとしての自分が何かを背負うべきだと考えていたのではなかろうか、と周囲は言っています。

「自らの決断」への忠誠

1944年には、東南アジア全体を管轄する「南方総軍」の兵站(へいたん)監、つまり補給・輸送・管理を担当するトップに就任し、中将に任じられましたが、翌45年に敗戦、捕虜となります。そして46年9月、フィリピンで絞首刑になりました。

洪中将は、兵站部門のトップでした。陸軍病院などを管轄しているのですが、その中の一つに捕虜収容所もありました。収容所で日本軍が捕虜を虐待したり、殺害したり、いろいろなケースがあってBC級戦犯が処罰されましたが、形式上とは言え総括責任者であるということで、絞首刑になっています。何という人生なのでしょう。

戦争が終わった時に、部下の日本軍人が「これで韓国は独立する。洪中将も帰国されて、活躍されることでしょう」と祝いの言葉をかけたそうです。その時、洪中将は威儀を正してこう言っています。

「自分はまだ制服(ユニフォーム)を着ている、この制服を着ている限り、私はこの制服に忠誠でありたい。従って、これを着ている限り、そういうことは一切考えていない」(上巻95ページ)

戦犯を裁く法廷で洪中将は一切弁明せず、無言を貫いています。

絞首刑となる日、キリスト教の教誨師だった片山牧師に、「片山君、何も心配するな。私は悪いことは何もしなかった。死んだら真っ直ぐ神さまのところへ行くよ。僕には自信がある。だから何も心配するな」と言って、絞首台に上りました。

戦争後の世界では、洪さんは「裏切り者」とされています。親友だった池大亨さんは、「建国の英雄」として、大臣になりました。こっそりと日本から支援をしていた洪思翊中将は、絞首刑を受けて人生を終わりました。

次の世代は、「裏切り者」と断罪してしまうかもしれないけど、その前に生きた人々の深い思いがある。もう少し想像力を働かせないといけないのではないか。歴史を見る時に大事なのはそういうことかな、といつも思うのです。

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__◎神戸金史(かんべ・かねぶみ)
1967年生まれ。毎日新聞に入社直後、雲仙噴火災害に遭遇。福岡、東京の社会部で勤務した後、2005年にRKBに転職。東京報道部時代に「やまゆり園」障害者殺傷事件を取材してラジオドキュメンタリー『SCRATCH 差別と平成』やテレビ『イントレランスの時代』を制作した。__

田畑竜介 Grooooow Up

放送局:RKBラジオ

放送日時:毎週月曜~木曜 6時30分~9時00分

出演者:田畑竜介、武田伊央、神戸金史

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