「多様性は票にならない」人のために働けど、4年に一度はリストラ/政治家残酷物語(3)

世界初のトランスジェンダー議員」ーー2017年の埼玉県・入間市議会議員選挙で初当選した当時、細田智也はこう呼ばれ、国内・海外のメディアに取り上げられた。各議会で誕生している性的マイノリティー当事者の議員の先駆けとして、象徴的な存在となったのだ。しかし、2023年4月、細田は議員の肩書を失う。理由は一言で言える。選挙に落ちたからだ。志をもって議員を務めていた細田が落選した背景には、全ての政治家がさらされる厳しい現実もある。(文中は敬称略です)

性転換後も変わらなかった風景を変えたい 決意した25の誕生日

細田は2人姉弟の長女として生まれた。しかし、七五三で着るような振袖の着物や中学校の制服のスカートなど「女の子らしい」とされる服装に興味がないなど、幼い頃から自分の性別への違和感があった。

家族や親戚、友人とは女性として関わってきたが、違和感は次第に大きくなっていき、大学時代に「これからの人生を男として生きていきたい」と思い至る。小さな頃から活発でマラソンが得意だった、そんな健康な身体にメスを入れることには戸惑いもあったが、23歳にして心と身体を一致させることを決断したのだった。

ところが、家庭裁判所から戸籍変更の通知を受け取った時、「見える風景が何も変わっていない」と気付く。幼少時から抱え込んできたものを変えたはずだったのに、自分の気持ちも、周りからの見られ方も、何一つ変化していないと感じていた。医療現場で働いたり、性的マイノリティー支援の市民団体で活動していたりしても、モヤモヤは晴れなかった。

こうした中、ふと、自分の生まれ育った入間市では性的少数者に対してどのような政策があるのか気になり、市に問い合わせたことが、細田の人生の転機になる。「あなたいくつ?」「今日で25歳になります」「25歳なら選挙に出られるじゃない!選挙に出馬しない?」--ちょうど誕生日に初めて会った市議会議員から猛烈な勧誘を受けたのだ。

だからと言って二つ返事で答えたわけではない。入間市はいわゆる「三バン(地盤・看板・鞄)」が強い土地柄で、長く活動している議員が多い印象が強かったからだ。当時はこう思っていた。「政治に近い身内も資金もないような自分が政治家になれる訳がない。率直に言うと、何を馬鹿な事を言ってるんだと思いました」。

しかし一方で、選挙について調べていくうちに、たとえ落選しても立候補すること自体に意味があるのではないか、と考えるようになった。当時は性的マイノリティーの認知度が今よりも高くなかった。自らがマイノリティーだと公言して選挙活動として街頭に立ち、声を挙げれば、市民が知るきっかけにはなれるのではないかーー

「特に子どもたちは、街頭演説や選挙ポスターをよく見ていますよね。こうした子どもたちに知ってもらうことで、一人で葛藤を抱えていた自分のような子どもが減るかもしれない」「セクシャリティーを理由にして、諦める必要性はないと伝えたい」という気持ちが芽生えていった。「女」としての自分しか知らない同級生がいる地元で、トランスジェンダーと明らかにすることには不安は小さくなかったが、その一念で立候補した。勧誘を受けた縁で入った民進党公認で初当選し、2期目は無所属で立候補して得票数2番目の上位当選を果たした。

意外にも受け入れられた少数派の自分、しかし選挙前に変わる風向き

市議会での活動は充実していた。

初登壇した市議会の本会議場には今までにないほど、多くのマスコミが取材に駆け付け、海外の新聞に取り上げられたこともある。また、議会内では反発されることも覚悟していたが「意外に少なかった」印象だった。

議会が独自に実施している研修会でも、性的マイノリティーの研修が初めて開かれた。同性パートナーシップ条例の請願を通す際には、大会派にも根回しをしながら、議会として請願の採択にこぎ着けた。

性的マイノリティーだけでなく、パートナーシップ制度の導入や性的マイノリティーに配慮した災害時の避難所運営マニュアルの改定などを呼び掛け、実現を後押ししてきた。

しかし今年の春、県議会議員選挙に挑戦しようとしたとき、支援団体は顔色を変え、こういって支援を拒んだ。「君は自分がLGBTだからLGBT政策しかやっていないじゃないか。他にも、障がいや不育症だの、学校や保育所の課題など子どものことなんてやっても、そんな声なんて無いし、票にはならない」。そして、県議選では他の候補者を応援すると告げられた。

細田は自身の経験を基にした政策提案も多いが、障害や女性に関する政策にも力を入れた。支援団体に見せてきた政策チラシにも「誰もが何かの少数派」というキーワードを入れ、そうした成果を報告してきた、つもりだった。しかし、これまで細田を支えてきた組織からは政治信条を全否定する言葉を投げかけられたのだった。

細田は支援団体を失いながら自力で選挙に臨んだ。そして、6539票を得るも5人中4番目の得票数で落選した。

それでも、この道を選んでよかった

選挙直後、細田の事務所を訪ねた。まだ戦いの痕跡が残っていた事務所の中で、議員になったことをどう捉えているか尋ねると、こう返ってきた。「この道を選んで良かった。大学時代に変わらなかった風景を変えられたから」ーー

そして、選挙から2ヶ月後の6月、細田は参議院内閣委員会でのLGBT理解増進法の審議のための参考人として答弁に立った。「前入間市議会議員」と紹介されたその場で、こう願いを込めた。

「日本では、周囲の目を気にし、社会的立場を維持するために、自分を曲げてでも性的に受け入れられない相手と結婚する性的マイノリティの方もいらっしゃいます。しかし、これは自分と周囲を偽り続けることにあるため、やはり苦痛を強いられている生活を送っている人は、この日本の中にはたくさんいらっしゃいます」「時代に合わせた改正や、施策の進展に伴う改正を望む希望を持ちつつも、まずは少しでも多くの国民が住みやすい社会になればいいなと思っております」

立場が変わった今も、今日も声を上げ続けている。「まだ希望は捨てたくはない」、事務所を訪ねた日の細田の姿が重なった。  

4~6年ごとに、「勝ち確」なき選挙戦

支援する団体側は、選挙の支援についてどのように考えているのだろうか。日本最大の産業別組織「UAゼンセン」の関係者は「あくまで一般論にはなるが、組織のためにならない主張をしていれば支援できないのは当然のこと」と話す。

市民の声を代弁して国や地方自治体の政策に反映する役割を担う議員の任期は短い。最も長い参議院議員でも6年間、それ以外の衆議院議員、地方議員、首長は全て4年間だ。議員の仕事をそれ以上続けるためには、選挙に立候補して勝つ必要がある。例えれば、数年に一度は"リストラ"に遭い、同じ仕事を続けたければ"再就職活動"を成功させなければならない。選挙が大きくなるほど当選に必要な票数が多くなるため、組織を味方につけられた候補は有利になりやすいが、そうした組織に選ばれる人はごく一握りだ。「質が高い政策」を掲げていれば選挙に勝てる、という訳でもない。

今年4月の統一地方選挙で立候補した人数は1万9190人、このうち落選して議員になれなかった人は4079人だった(いずれも選挙ドットコム集計)。立候補者が選挙の度にさらされるプレッシャーは想像するに余りある。

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政治家残酷物語(2)眠れない、涙が止まらない……逃れ難いハラスメント

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