批判された慶応高の応援…背景にある「圧倒的な同窓意識」とは

23日、第105回全国高等学校野球選手権記念大会(通称:甲子園)の決勝戦が行われ、神奈川県代表の慶應義塾高校が宮城県代表の仙台育英高校を下して全国3486校の頂点に立った。

※以下、簡略化表記として検索しやすさも兼ねて慶応高や慶応と一部表記する、これは塾員としては正式なことではないがお許しいただきたい

慶応高の優勝は大正時代の1916年以来実に107年ぶりのこと。

歴史的な快挙であるが慶応高の優勝には批判的な意見も多く集まった。勝ち進むにつれて塾員と呼ばれるOBが派手な応援を繰り広げたからだ。

SNS等では

「大挙して応援に来すぎ」
「相手方のアウトの際にも大きな声を送るのはどうか」
「応援の声量が大きすぎる。制限をもうけたほうがいいのでは…」
「OBがしゃしゃり出てくるのが嫌」
「上級国民アピールか」
「節度を保ってほしい」

「応援も力である」という意見があるものの、批判的な意見が多く集まった。

特に5回の慶応の攻撃で、仙台育英高校の外野手が、お互いの声が聞こえずにエラーにつながったシーンもあるだけに応援が平等ではない…といった意見は強かったと思う。

今回は塾員でもある筆者が、何故甲子園でここまで盛り上がるのか、そしてワールドサッカーの熱狂的な応援と絡めて解説していきたいと思う。

斎藤佑樹「これがスタンダード」

今回の甲子園で解説を務めた元日本ハム、早稲田実業高の斎藤佑樹氏は「早稲田の応援も相当すごいですが、慶応の応援もこうやって聞くと、改めてすごい」「これがスタンダード」と慶応の応援は彼らの中でのスタンダードであることを説明した。

何故、慶応の応援があれだけの大人数になるかは理由がある。

1つは慶応校がマンモス校で2000人以上の生徒が在籍しており、単純に在校生とその保護者が応援に行くだけでアルプススタンドが埋まってしまうほどであること。

次が、「慶応」ならではの事情だが、チアリーディングを担当していたのは系列校の慶応女子高、ブラスバンドを担当していたのは同じく系列校の慶応志木高のOBであった。

同じように大学付属の高校であっても、東海大相模高校の応援に東海大甲府高校のOBが応援にいきトランペットを吹くというのはあまり聞かないだろう。

しかし、それが慶応のスタンダードだ。小学校、中学校、大学生、そして系列校含めて全てが「オール慶応」という意識を持つ人たちが多いからだ。

慶応は何故ここまで応援に盛り上がる?慶応ならではの事情

慶應義塾は福澤諭吉が創立し、今日では幼稚舎(小学校にあたる)から中学、高校、大学と設置している。

系列高は、付属校という言い方はせず『一貫教育校』と呼んでおり、どこの段階から入っても大学までは99%とほとんどがストレートで進学することができる(一部他大に行くものもいるが非常に少なく、慶應義塾女子高校でも95%が慶応大学へ進学する)。

こうした点では、今日では早稲田なども同じような仕組みをとっていて珍しいことではない。ただ早稲田は例えば早稲田高と早稲田佐賀の内部進学率が50%程度となっているなど、系列校によっては上へ行けない。慶應の方が全体の内部進学の%が高いのは魅力になっている。

慶応の面白い点としては、『中学、高校と1つの校舎で学ぶ中高一貫校ではない』ことだ。

中学が普通部、中等部、湘南藤沢(SFC)、ニューヨーク学院、高校が慶応高(塾高)、志木高、湘南藤沢、ニューヨーク学院、女子高とそれぞれに分かれていて、進学の際に分岐する。

例えば中等部からは男子は志木高、塾高への進学組がいて(筆者が在籍していた当時はSFCへの進学も可能であった)、女子は女子高へ進学する。そして、また大学でも学部選択の自由がある。

それは、学校が分かれてもそれでさよならというわけではない。途中で学校が変わっても気の知れた仲間たちであり、大学などで再び合流するからだ。

もっと言えば、部活動などでより密接な関係になる場合も多い。特に今回、チアリーディングを担当した女子高と男子校である塾高は仲の良い関係にあり、恋愛関係や友情関係が作りやすくなっている。 さらに、その関係は大学以降、社会人になっても続いていく。決勝で吹奏楽を志木高OBが一部担っていたことは内部的には当たり前に支えあう関係となっている。

特に小学校にあたる幼稚舎は、内部の中でもとりわけお金があったり親が有名人であったりとお坊ちゃん・お嬢さんという認識は強い。そして、6年間同じクラスで鉄の結束を持つ。今回の慶応高校の森林貴彦監督は幼稚舎で小学3年生の担任をしながら、系列校の慶応校で指揮をあたるに足の草鞋を履いていた。

そのため、森林監督から教えを受けたというOB・OGの中には芸能人や女子アナウンサーも含まれていて、応援にかけつけていた。

慶応OBの“同窓意識”

慶応というと卒業生が入る「三田会」の結束力の高さが話題になる。「卒業してからが本当の慶應」と記載があるほどだ。

SNSでは、女子高出身の芸能人や大学だけ通ったOBなども“塾高”の快挙に喜びを見せた。実際、筆者の周りでも数多くの「塾員」が今回の甲子園で現地に足を運んでいる。

彼ら・彼女らは全員が塾高卒ではない。「大学だけ」とか「医局だけ」とか中には、高校までは慶應だったが他大へ進学したというものもいた。

筆者も塾高に進学を選ばなかった人間である。そして、もっと言えば慶応に入りたくて入ったというよりは第一志望に落ちた中の選択肢として自由な校風や共学にひかれてはいった人間である。

さらに他の学校も出ているので、他の人よりも「慶應ブランド」を感じていないし、より帰属意識、愛校精神は「低い方」と言える。

慶応には2通りのパターンの人間がいて、親子代々で慶応とかで福澤諭吉の“信者的”な家庭と、筆者のように一般の家庭から慶応を意識せずに入学したものがいる。

そして下から(幼稚舎あがり)持ち上がっているもののほどがより愛校精神が強いように見えた。反面、大学だけとか高校から入学した人の方がよりそうした意識は弱いと思う。

それでも“抜けられない仕事”さえなければ甲子園に応援に行っていたであろう程度の熱はある。上述の通り何故ならそれが慶応にとっての「スタンダード」だからである。

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慶応と欧州サッカーのサポーターの共通点

慶応の応援力というのは、「ロンドンにいるおばあちゃんがサッカーに詳しくなくても地元のトッテナムやアーセナルを応援する」ようなものと言えばいいのだろうか。

普段高校野球の熱心なファンでなくても、新聞でなんとなく高校野球の結果は追うし、こうして晴れ舞台に「後輩」が登場するとなったら見に行くのは当たり前である。

それは年齢も性別もどこまでかかわりが濃いかは置いておき、全員に「血」が流れているからだ。

慶応では入塾すると小学生だろうが中学生だろうが、系列校は大学の早慶戦に見学に行き「若き血」を肩を組み歌い応援を学ぶ。何かあれば全校をあげて応援するという意識が気が付くと当たり前になっているのである。

ただ、これはプロ野球の千葉ロッテ・マリーンズの応援がすごいこと、サッカーでいえばトルコ人がガラタサライの異様な雰囲気を止められないのと一緒である。もっと言えば、セリエAのサポーターが問題視されようが発煙筒を炊いていたのと同じで、彼らにとってその応援は「日常」であり「儀式的」でもあり、それ以外の人たちにとっての「非日常」である。

私自身も周りに「応援に行きたい」というと、「愛校精神が高くないと自分から言うのに甲子園には行きたいの?え?え?」というような反応で見られている。それが一般的な考えではないことは重々承知している。

だからこそ、応援風景が「学生に対してプロのような応援をするのはいかがなものか」「宗教的である」と感じて批判的な意見があるのも理解する。

筆者の学生時代を振り返ると、応援していた試合では大差になったり、大雨で下着までぐちょぐちょでも応援を強制されるシーンがあって、さすがに解せなかった記憶もある。一般との乖離があることもまた認めなくてはならない。

応援は勝率を左右する

実際、サッカーの世界では応援は勝率に関係すると見られている。

ホームでは異様に勝率が高いチーム、一方でアウェーでは全く勝てないチームが当たり前のように存在している。古い話で恐縮だが1998-99シーズンのイタリアのペルージャなどはアウェーでほとんど勝てず、ホームでは強い方だった。中田擁するチームは最終的にセリエA残留を勝ち取るが「応援」は武器の1つになっているのだ。

日本でも浦和レッズの応援の熱量は今更説明するまでもないだろう。

だが、こうした「応援」というのは選手だけでなく応援している方も熱が入りアドレナリンが出るものだ。具体的事例をあげることはしないが、浦和レッズの応援は過激でも知られていて、度々問題になることもある。

今回は103年ぶりの決勝進出、107年ぶりの優勝ということで一生に一度のチャンスと見たOBも多かっただろう。日本代表がワールドカップ決勝に進出した、おらが町のチームがチャンピオンズリーグ決勝に出場したというようなものなのだ。

慶応の「血」がそうさせたのだというのは、内部の人間としてはわかる。一方で、「嫌いだ」という意見に悲しみを覚えつつも理解はできる。

高校野球に規律と節度を求めるのか

それはなぜかと言うとこれが高校野球の舞台で教育・学生という立場のアマチュアスポーツだからだ。

高校野球というアマ・学校教育の舞台でどこまでの応援をするべきだったか。制限を設けるべきなのかそれは今一度考えるべき論点になりうるだろう。

とりわけ今回の慶応高の躍進は「長髪」「エンジョイベースボール」「常に笑顔」「自由な校風」とこれまでの高校野球観のステレオタイプからは外れたものだった。一方で、今でも自分たちは理不尽なスポーツの部活を通してきて得られたものがあったので、厳しさ、戒律、規制を指導に取り入れる声も根強い。

実は「塾高」は、内部では(筆者たちの代では)自由度の低い方だった。

学生服で詰襟、2000人のマンモス校ということもあり、ある程度の厳しさ律するべきシーンも多いと捉えらえていて、SFCや志木高の方がより自由度が高いイメージもあり珍しくそちらに進学する生徒が多かった年でもあった(とりわけSFCは開設当時には一般常識がないとか社会に出たら使えないというバッシングも多く受けた)。

だが、慶応の内部ではそういう認識であっても、社会は未だそうではない。

「真夏でもスーツ」「髪型髪色に規制」「笑顔だと怒られる」という旧態依然の会社もまだまだ多いのも日本の特徴であるように、自分たちの応援スタイル、優勝という結果に誇りは持ちつつも、まだまだそれが一般的ではないという謙虚さ、「甲子園のルール」「日本のルール」というものがある中で相手チームをどうリスペクトするのか、どこまでの応援を想定していくのかは考えなくてはならないだろう。

野球を“楽しんでいる”象徴的な選手が大谷であろう

昨年までの高校サッカーの青森山田高校のロングスロー問題でもそうだが、日本の学生スポーツ界には学生なのだからルールにないにしてもやり過ぎは禁物ではないか、平等に戦うべきではないかという「学生ならでは」を重んじた「教育の一環」という下での「制限」をもうけたい層は多い。

個人的な意見としては、すでに学生スポーツはビジネス化しており、甲子園は毎日新聞・朝日新聞の利権になっているし、アメリカでは大学スポーツNCAAの年間収入は1000億円を超えるという。大学などの学校名を関したファッションアイテムは今やZOZO TOWNやGUでも購入できる。私学全盛、少子化の時代にあっては「学校法人」というのも「利益を追求」「生き残り」をかけてブランディングしていかないといけない時代にこうした世界的な流れは止められないと考えている。

今後の甲子園は系列校含めて学校法人単位での応援合戦も含めた戦いになってもおかしくはないのでは?と考えている。だからこそ、きちんと応援スタイルのルールが必要なのであればそれを作るべきで、そうでないなら日本に世界基準の応援を浸透していかなくてはならない。

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何か無理やり取り繕ってまとめたような気がするが、それを騒ぎ立てるのはいつも外野であり大人たちである。生徒たちに罪はない。慶応義塾高校野球部の皆様何はともあれ優勝おめでとう!

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