採石場で強制労働、日本人捕虜1600人が犠牲 知られざる「モンゴル抑留」 跡地に資料館が開設

強制労働の展示に取り組むウルジートグトフさん(左)と近彩さん=いずれもモンゴル・ウランバートル市内(撮影・後藤 剛)

 終戦時に旧ソ連の捕虜となった日本の軍人、軍属などの一部はシベリアを経由してモンゴルに送られ、2年間、首都ウランバートルの建設などに従事させられた。だが約1600人が亡くなったとされる強制労働の事実を知る人は、日本でもモンゴルでも数少ない。「歴史の空白」に衝撃を受けたモンゴル人男性が私費を投じてゆかりの地に資料館を開設し、無料公開している。現地を訪ねた。 (論説顧問・三上喜美男)

 資料館の名称はひらがなで「さくら」。遊牧民のテント式住居ゲル内に、当時の写真、強制労働で使われた建設資材、書籍など数十点を展示している。首都郊外の丘陵地に昨年8月、オープンした。

 開設したのはウルジートグトフさん(46)。国立公文書館に通って建設作業などの写真を集め、使用されたれんが、工具なども収集した。展示品には日本語とモンゴル語で説明文を付している。

 「さくら」の場所は広さ約1ヘクタールの旧採石場の一角で、日本人捕虜が手作業で石を切り出した現場。石は首都の道路や広場などの礎石に用いられたという。

 だがモンゴルでは今も強制労働の史実を国民に教えていない。70年以上の時が流れて歴史が忘れ去られ、採石場はいつしかごみ捨て場となっていた。

 ウルジーさんは土地を買い取ってごみを撤去し、ボランティアの協力で児童公園に整備した。「ここで何があったのか」とふと疑問を抱いて国立公文書館などで史料を調べ、強制労働の事実を知ったという。

 政府庁舎や国立大学、オペラ劇場など今も使われている主要施設の建設に日本人捕虜が従事したことも初めて知り、衝撃を受けた。

 「歴史の空白を放置できない」と資料館開設を決意したウルジーさんを現地在住の日本人記者、近彩さん(82)らも支えた。近さん自身が運営に関わるマラソン大会の収益を寄付し、都道府県を示す47本の桜を植えた。

 今年の終戦の日には在モンゴル日本大使も資料館を訪れ、ともに犠牲者を追悼した。

 「捕虜の苦しみを思うと同じ人間として胸が痛む。ウランバートルの基礎は日本人が築いた。事実を知ることが大事だ」とウルジーさん。日本人の来訪も増えており、市街地を一望する丘の上で未来への友情を育みたいと願っている。 【モンゴル抑留】旧満州などで捕虜となった軍人など約60万人のうち約1万2千人がソ連経由でモンゴルに送られ、1945年から約2年間、首都ウランバートルなどで強制労働に従事した。過酷な労働や厳寒、飢え、感染症などで約1600人が亡くなったとされる。日本政府は遺骨収集事業で約1500柱を回収したが、不明の人も残る。2001年、現地に日本人死亡者慰霊碑が建設された。

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