残存? 解体? 東日本大震災 震災遺構12年の行方

2023年、今年は東日本大震災から干支が一周した年である。3月11日にはスカイツリーなどが鎮魂の彩りを示し、テレビ局各局は特番を放映していた。

人の記憶は、だんだんと薄れていく。それ故、この夏は、震災遺構とともに記憶を呼び戻してみたい。

第1章 陸前高田市~奇跡の一本松~

陸前高田「奇跡の一本松」遠目から見てもその姿は、復興の象徴と言える

江戸時代1667年ごろから高田の豪商、菅野杢之助によって植樹が始まり、約7万本のクロマツとアカマツの防潮林は、高田松原と言われ、三陸沿岸有数の観光地であった。

東日本大震災の日、この付近は約17mの津波が襲来し、松原全体が波にのまれた。しかし、奇跡的にたった一本だけが、津波の猛威から逃れ、生き残った。

十時間以上も水没していた奇跡の松は、保存されることが決まった。そして、震災から一年後、防腐剤を塗布され、震災の記憶・記録として、残されることとなった。

当時の市長は、「建物を残しても希望は持てないが、一本松は復興や希望の象徴となる。世界中から応援をもらっているので残す責任がある」と述べた。紆余曲折はありながらも、高田の一本松は、この地域の震災遺構として、後世にその記憶・記録を残すこととなる。

震災前に車の中から見た「高田松原」、そして、震災後に見た「奇跡の一本の松」、どちらの記憶も小生の中では、生き続けている!

がれきを処理するベルトコンベアーの向うに、かすかに見える「奇跡の一本松」

(撮影 2014年3月3日)

第2章 大槌町~旧大槌町役場~

窓ガラスがすべて割れて、残骸となった建物のそばにヒマワリの花、生きることの大切さが見える

時計の針は、17時20分を指している。ここ旧大槌町役場では、当時の町長と町の職員40名が津波の犠牲となった。役場を残すか解体するか、大槌町では、様々な議論がなされたと記録されている。最終的には議長裁定で解体は決まった。

三陸沿岸の市町村では、この「残すか、解体するか」の議論がたくさん出ていた。しかし、震災復興ツーリズムによる経済効果・観光観点という考え方は偏りがある。経済効果よりも後世に語り継ぐことの重要性の方が、大切ではないかと感じる。

この日も数多くの視察者が、崩れ落ちそうな役場の姿を見るために訪れていた。実際にその場に立ち、見たモノ・コトを、自らがどう理解・消化していくか、まさしく、それが大切なことであり、大きな課題である。震災遺構が無くとも、きちんと後世に語り継いでいくことこそ、東日本大震災を経験した一人ひとりが、きちんと「つなぐ」こと、私たちの大切な使命ではないだろうか?

この日も視察者が絶えない、何を語り継ぐか、重要なことである

(撮影 2013年8月24日)

第3章 気仙沼市~鹿折唐桑・第十八共徳丸~

鹿折唐桑駅の跡から見る第18共徳丸

有に60mもある第18共徳丸という船が町中に流れ着いた。ここは、海から750mほど入った鹿折唐桑というJR大船渡線の駅前だ。

気仙沼は、東日本大震災の津波が、最大28.7mに達した。また、地震後の大規模火災も町を破壊していった。そして、この330トンもある船が陸上に取り残された姿は、津波の脅威を肌で感じるだけでなく、船の下に軽自動車が潰されている状態を目の当りにすると、言葉も出ないほどのショックを覚えた。

JR気仙沼駅は、高台に位置するため、津波の被害を受けなかった。しかし、海抜が下がる町中へ進むにつれ被害は拡大する。線路は剥がされ、駅舎も流されて、跡形もないものとなった。

鉄道復興には時間がかかりすぎる。そのため、国内で初めてBRT(バス高速輸送システム)というバス輸送に転換された。鹿折唐桑付近は、線路跡を活用した専用道ではなく一般道を赤いバスが走る。震災復興のため、再度、線路を敷くことよりも公共交通機関として、専用バスを一日も早く走らせることを判断したのである。しかし、輸送力が乏しくなることは、明らかだ。

第18共徳丸は、2013年9月に解体が始まった。約7割の市民が「保存の必要なし」とアンケート回答し、判断された結果である。

住宅街であったであろう場所に流された第18共徳丸

(撮影 2013年8月29日)

第4章 南三陸町~旧防災庁舎~

震災遺構として残される防災対策庁舎、数多くの花が手向けられている

1995年、旧志津川町役場(現南三陸町)の行政庁舎の1つとして建設された防災対策庁舎は、チリ地震の浸水深2.4mに対して、海抜1.7m海岸から約600mの地点に建つ3階建てである。地上から高さ約12mの屋上が避難場所となっていた。

2011年、東日本大震災に伴う15.5mの津波により、第1庁舎および第2庁舎は流失し、防災対策庁舎は骨組みと各フロアの床および屋根等を残して破壊された。

津波来襲の15時25分頃まで、防災無線放送は、62回に渡り繰り返し、住民に避難を呼びかけ続けた。最期まで防災無線で避難を呼びかけて犠牲になった女子職員の行動は、「多くの命を救った命懸けのアナウンス」と大きく評価された。遠く離れた埼玉県公立学校で2012年から使われる道徳の教材となっている。

2013年、町が保存から解体へ方向転換すると、宮城県と復興庁が遺構保存の支援を発表した。2015年に県有化が検討され、町民6割の賛成と議会の全会一致により決議。そして、2031年まで県が管理保存することが決定した。

復興インフラは進んだ。まずは、住まう人々を支援することが、第一義であろう。しかし、記憶・記録は、失ってしまってからは元に戻らない。まだまだ、復興は道半ば、なのかもしれない。

同じく震災遺構である「高野会館」屋上から見る防災対策庁舎と南三陸町の町並み

(撮影 2014年10月5日)

先人達が残したもの~碑文に刻まれた言葉~

凡そ人類には健忘性がある 後昆此の碑を見聞する者深く警誡して忘却せざるよう 余の切に願ふ所である

<釜石市平田・海嘯記念碑>

高き住居は児孫の和楽 想へ惨禍の大津浪 此処より下に家を建てるな

<宮越重茂姉吉・大津浪記念碑>

三陸沿岸には、地震に関する数多くの碑文がある。

まさしく、人は忘れ去る生き物である。風化していく記憶、留めおくべき記録を教訓として、いかに後世に語り継ぐか、人任せではなく、自らが率先して、つなげていくことが一番大切なことではないだろうか。

と、思いつつ、夏の盆送りも終わり、またひとつ、年が過ぎていく。

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取材 中村 修(なかむら・おさむ) ㈱ツーリンクス 取締役事業本部長

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